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手間を惜しむな

政治に対してもそうだし何に対してもそうなんだけど、
支持するに相応しい人は誰なのか、でなく、
誰のどの意見は支持できてどの意見は支持できないのか、
という一つひとつの意見を吟味する手間を惜しまない事が大事なんじゃないか。

全ての意見を自らの理想通りに語れる人を探してたらそれこそ人生終わっちゃうよ。

てか、全てを自らの理想通りにしたいのなら、
あなたがやれば一番手っ取り早いじゃん、って思ったりもしてしまうしね。
by syohousen | 2011-08-31 11:28 | つれづれと

8/30(火) 横山自主稽古レポ

8/30(火)10:00~12:00 横山自主稽古 @川越市中央公民館・和室

【進行】

■手足を揺すりながら空間を歩いてみる
■右腕の腕先から徐々にその範囲を広げ最終的には肩甲骨から先の全てを揺すってみる

■膝を立てた状態で仰向けになり、左右に膝を倒しながら腰周りの緊張を緩めてゆく
→その動きの中から自らの身体の現状を探ってゆき、そのまま身体の求めるままに伸ばしたり揺すったりして無理なくほぐしてゆく
→最終的に立った状態になり、少しの時間、これまでの自らの動きの余韻や今の身体の状態を味わってみる
→手を筆に見立て、何もない空にその筆で何でもいいので描いてみる
→自分の身体から距離のあるところへ向けて大きく描いてみる
→徐々に描く範囲を小さくしてゆき最終的には動きそのものを収めてゆく
→動きが収まったら楽な姿勢で立ち、今まさに身体に起こっていることをじっくりと味わってみる

■自己実況(内⇔外での意識のフォーカスの出し入れ)

■スー(s)・ズー(z)・ザー(a)
■ほわ
→「蜘蛛の糸」の冒頭を声にしてみる

■スズキメソッド(1番、2番、4番、スタチュー、シッティングスタチュー)

◆休憩

■『銀河鉄道の夜』をフラットな状態で読んでみる(前半部分のみ)
→今度は『オツベルと象』を読んでみて、その感覚の違いを味わってみる

【ふりかえり】
本日より週1回ペースで時間を作り、自主稽古を行うこととした。
参加希望の方がいればもちろん受け容れるつもりだが、基本的には横山自身のための稽古場なので、進行も横山の現状に合わせた内容で進めてゆく場になると思う。
現に今回も横山一人で行う形であったし、とにかく今の自分が俳優としてやれることをやれればいいかなと考えている。

そんなこんなでその自主稽古の第1回目。

今日はとりあえず、自らの身体と感覚と技術的な能力の現状確認のために時間を費やした。
やはりどの部分でも、かなり鈍っているように感じた。

そんな中でも特にそれを痛感したのは呼吸面。

かつての語尾と共に呼吸が抜ける悪い癖は日頃から意識するようにしていたためだいぶ改善できているのだけれども、基本的には数年前の毎日のようにスズキメソッド等を行って鍛えまくっていた頃に比べて呼吸の持続力や勢いのようなものが相当に落ちていた。

また、初見での文章を声に出して読もうとすると途端に声の圧が弱まって滑舌がぐしゃっとした不明瞭な感じになってしまっていた。
たぶんこれは己の発声面に対する自信が失われてきていることも少なからず影響しているのではないかと思う。
己の呼吸に自信が持てなければ、結果呼吸を気にしながら読むことになるため集中力も弱まるし心のどこかでブレーキをかけてしまうために思い切った表現にも飛び込めなくなってしまうからだ。

当面の課題としては、第一にこの呼吸面を中心として強い身体(但し俳優としての、だが)の獲得を定めてこの自主稽古を進めてゆこうかと思う。


他の点で感じたこととしては、『自己実況』を行っていた際に、意外とこの手のエクササイズはすんなりとやれるもんだなということだった。
もう少し詰まったりするんじゃないかと思っていたのだが、思いの外停滞するような瞬間も少なくて自分でもびっくりした。
まあ、とは言ってもまだまだ十分とは言い難い出来ではあって、視覚であれば視覚ばかりに、聴覚であれば聴覚ばかりに偏ってしまっていて完全に「迎えに行く」姿勢のまま取り組んでいたのは頂けないと思う。
もっと「ただその場に在る」という状態のままに言葉を垂れ流してゆけるようなところにまでまずはいけるようにしておきたい。
たぶんこのエクササイズにおいて大事なのはその先なのだと思うから。

ちなみにこのエクササイズ中、ふと「言葉の流出を停滞させない」のに非常に適した状態になれていたように感じた瞬間があった。
「今の自分の状態が適正かどうか」という自意識のようなものを完全に振り切ってただひたすらに「今、ここ」にだけ没頭することができていたのだ。

ただ、それがどうしてそんな状態になれたのか、というところまではよく分からなかったのだが、そのような状態を体験できたことは非常に大きいことだったんじゃないかなっては思う。
というのも、そういう状態になれたらいいなと思えるエクササイズは他にもいくつかあるため、それらにも取り組みつつどうしたらそういう状態になれるのか、多角的に検証してゆくための第一歩を踏み出せたということだと考えているからだ。


まあ、そんなこんなで、今回の経験を元にして今後の自主稽古の方向性のようなものをとりあえず決めてみようかなって今は考えている。

まだまだ始まったばかりだし、今後継続させてゆくにあたってどのようなやり方で続けてゆくことがより多くの成果のようなものを上げられるのか、そこにだけは貪欲になってゆきたいなと思う。
by syohousen | 2011-08-30 23:06 | レポート(その他)

8/28(日) サマカトWSレポ

8/28(日)18:15~21:15 サマカトWS@下赤塚駅前集会所・第2洋室

【進行】
■2人1組となってローテーションゲーム
→カウントの「1」を足踏みにしてみる
→カウントの「2」をクラップにしてみる
→カウントの「3」を相手の肩に触れることにしてみる
→カウントを5まで増やし、「4」でメガネをかけ直す仕草、「5」でもう一度クラップ、で行ってみる
→スムーズにやるために何か有効な手段がないかの作戦会議を1分行い、もう一度挑戦してみる
→パートナーを変えて行ってみる

■パートナーを変えて、相手と向き合った状態で手の甲を上に向けた状態で両手を出し合い、相手の手に触れないように重ね、下の方の手の人が上の人の手を叩けたら上下(要は攻守)交替。その際、出されたお題を元にして相手と話をしながら行う
→パートナー&話すお題を変えて同様のことを行う

■パートナーを変え、背中合わせの状態でお互い長座になり、片方が「相手の真似したい人」、もう片方が「相手と違う形になりたい人」になって、相手を背中で感じながらやり取りをしてみる。但しこの際に動ける範囲は膝の曲げ伸ばしのみ

◆休憩

■椅子を程よい距離で向き合った状態にして並べ、その周りを2人、それぞれが仕掛け・受けの台詞を与えられるのでそれでやり取りしつつ、追いかけたり追いかけられたりする(攻守の順番等の決まりはなし、お互いの呼吸で変えてみてよい)
→「座れるな」或いは「座りたいな」と感じてきたら、どちらかでもいいので椅子に座り、座られた方も相手が座ったのを確認したら座り、引き続き台詞のやり取りを続ける
→先のやり取りが行われている中、それぞれの椅子の後ろにゴーストの人(台本を持ったプロンプター的な人)が付き、合図が出たら後ろからそれぞれ台詞を口立てるので、椅子に座った2人は言われた台詞をそのまま発して会話を行う


【ふりかえり】
かつて共演したことがあって役者としても素敵だなと思っている澤唯さんのWSに参加してきました。

澤さんのWSを受けてみて感じたのは、シンプルな仕掛けのエクササイズから始めて少しずつ負荷を増してゆき、その中での自らの身体の変化の中から自らに対する発見を引き出してゆくという、言ってみれば池内さん系(という括り方は失礼かもだが)のアプローチの仕方ではあるのだけれども、内容的には物凄く澤さんの人柄が出ているなぁ、ということ。
もしかするとこのやり方自体がファシリテーターの性質を反映し易い手法なのかもしれないのだけれども(現に手法の近い宏平さんの時も物凄い人柄を感じるし、だからたぶん自分もそうなんだと思う)、なんだか初めは取っつき難そうに見えるんだけどでも実際に触れてみるとどんなにめんどくさがっててもちゃんと見切らず最後まで相手し続けてくれるなっていう安心感を得られたんですよ。
なんか、この感覚は、他の方のWSを受けた時には(皆無とは言わないけど)あまり感じなかった感覚でした。

そこでふと思ったことは、「如何に自分を晒すことができるか」こそがこのアプローチにおける最も大切なポイントなのかなということと、「自然体」であることの重要性についてもっとよく考えてみる必要があるのかもなということでした。

やっぱり対等の目線で、ってことは物凄く大切なことなんだなって思いますわ。
別に何か特別に意識せずとも自然と「自分で考える」というメンタリティになってゆくので。



個人的な話としては、役者としてこれ以上ないくらいに思い悩み続けていた自分にとって、そこから前進できそうな兆しが見えてきた矢先の時期にこのWSへと参加できたことは非常に価値のあることだった気がします。

自分でも何故なのか分からなかったここ半年間続いていたあの人前へ立つことへの恐怖感と少しずつ冷静に向き合えるようになってきていて、「楽しい」と思える瞬間も増えてきている気がしてます。
何より、全く動いてくれなくなっていた心がこの場ではだいぶ動くようになってきていたので、それがほっとしました、、、

たぶんこれって澤さんのWSだったからこそ、という点も結構大きかったんじゃないかなって思います。
それは別に澤さんと自分の関係性でというよりも、あの場が全体的に変な気取りのない状態になれていたので身構える必要がなかったなっていう、澤さんの「場づくり」の力のお陰、という意味です。

自分も見習うべきところは見習って、うまく自分の指導に組み込んでゆけたらなと思いますわ。

役者としては、今後やり難い空気の場でもちゃんと心身共に動けるようになってゆかねばなと、そう思います。


や、本当に、参加できてよかったです。
また何かの機会があれば、ぜひ参加したいなと、思ってます。

ありがとうございました。
by syohousen | 2011-08-29 23:38 | レポート(外部受講)

「天分を得ている」という自覚

なんか、自らに与えられた天分のようなものを
自らの望んだ道でうまく生かせる機会を得ている人間であるのならば、
でき得る限りその恵まれた境遇に対して誠実になって欲しい。

でも、案外それができている人って少ないような気がする。

少なからずその才に頼って努力を怠ったり、
周囲の声に惑わされ驕ってしまったり、
自らの都合によって己の実力への評価を矮小化させて
やるべきことをやらなかったりと、
せっかくの強力な武器を得ていながらも
その切れ味を鈍らせてしまう人の方が多いように感じる。


別に完璧である必要はないし、
過度なストイックさは視野が狭くなる一因にも繋がってくるだろうから
「こうあらねば」などというつもりはさらさらないのだけれども、
でも、あまりにもその自覚のない人間にはつい苛立ってしまう。


まあ、そんなこと言っても人は人、だから構わないんだけど。

でも、与えられた天分を無下に扱われているのを見るのは
やっぱり悔しいもんだなと、それが正直なところでもある訳ですよ。

や、いいんだけどさ。
by syohousen | 2011-08-28 10:47 | つれづれと

「あの日」からの時間の流れ方

ここ2週間ほどの間に観た演劇作品は、
どれも当たりの作品揃いだったのだけれども、
そんな中でふと感じたことがあった。

それは、今回の震災を経て、作り手の人の中の時間の流れ方が

加速してしまった人、
停滞してしまった人、
後退してしまった人、
変わらずに歩めている人、
そして、それ以前にメッキが剥がれてしまった人、

という風に分かれてしまったんじゃないか、ということ。


最後のメッキが剥がれた人以外は
きっとどれがいいとか悪いとか一概に言えないとは思うのだけれども、
たぶん、ここ2週間で出会った素晴らしい作品達は
そのほとんどが「加速してしまった人」の作品だったんじゃないかって気がする。

そしてそういう人達だからこそ、
あんな奇跡のような作品が生み出せたんじゃないかとも思う。


ただ、そこに一抹の不安も感じていて、それはたぶん、
その「加速されてしまった時間」の反動がいずれやってくるんじゃないか、
という点なのかもしれないなと、そんな気がしている。

願わくは、そうはなって欲しくない。

しかし、仮にそうなったとしても
それすら乗り切ることのできる人であるのならば、
その人は演劇の世界そのものにとって得難い存在となるはず。

負けて欲しくはないなと、心から思う。



その一方で、あの日から時間が停滞していた自分の中では、
少しずつながらも、時間が進み出している実感が今、持ててきている。

出遅れた感はあるけれども、焦ったって人間一歩ずつしか歩けないのだから、
その一歩に全身全霊を注いで、自分なりの道を切り開いてゆきたく思う。
by syohousen | 2011-08-27 22:39 | つれづれと

「初めて」とか「不慣れ」とか、

「初めて」とか「不慣れ」とか、
そういうのってほんとクソクラエだと思う。

そんなことを言い訳に選ぶのは、
学生時分でとっくに卒業しているべきことであって、
もしそんな言い訳をするくらいならば、はじめっからやらなくていいよ。

やるからにはそんなことを周りに気付かせず、
本職の人と渡り合う気持ちでやってかなきゃ
その取り組んでいる物事に対して失礼過ぎると思う。

少なくとも自分はそうやって何事にも取り組んでゆきたい。
by syohousen | 2011-08-26 10:27 | ものの見方・捉え方について

孤独を拭い切ることはできないのかもだけど、

寄り添うことはしたくない。

きっと孤独は共有できないし、打ち消すことはできないから。


ただ、その人が突き進んでゆく道とは違っていても、
その違った道でどんな形でもいいから追い越すことさえできれば
お互いがお互いの視野に姿を捉えることができるようになるんじゃないか。


たぶん、それが同志ってことなのかもしれない。

お互い直接手を貸すこともできないし、
たぶん声がけくらいしか相手に働きかけることはできないし、
だからどうやっても孤独は拭い切れないのだろうけれども、
でも、その存在を感じられるだけでとても心強さを感じさせてくれる。

そういう関係を、築けるようにしたいなと、思う。
by syohousen | 2011-08-25 10:32 | つれづれと

本気でどうにかしたいと思うならば、

なんだか思うんだけど、既存メディアのやり口についての指摘を
ツイッター等のweb上でだけでああだこうだと言っててもねぇ、、、

そういう事を一番伝えなきゃならないのって、
既存メディアでしか情報を得ていない人達なんだから、
本気でどうにかしたいと思ってるのならばそっちに働き掛けようよ。


それって実際にやってみると分かるけど、ほんと大変だよ。


でも、だからって分かってもらえそうな人達にだけ
警鐘を鳴らしていても、それは単にやった気になってるだけで
事態の根本的な解決には決して繋がらないと思う。
by syohousen | 2011-08-24 12:23 | つれづれと

感動まで人任せなの?

なんでそんなに創り手の意図と
自分の感じた事とで答え合わせをしたがるんだろう。

仮にどんな意外な感覚を覚えたとしても、
その時に感じたことだったならば
それこそがその人にとっての事実なんじゃないの?

そこにわざわざ答え合わせをすることって必要なの?

そもそも答えなんかあるの?


まあ、自分では思いもしなかった発想を知りたいってんなら気持ちは分かるけどさ。

創り手がどんな意図を持って創作に及んだのか、
そこへ対する興味を持つことだって自然なことだとは思う。

でもさ、まずは自分がどう感じたか、それが一番大事なんじゃないのかな。


感動まで人任せだなんて、どうなんだろうかそれ。
by syohousen | 2011-08-23 10:31 | つれづれと

ただただ呆然と、しています、未だに、

昨日観たマームの余韻が未だに抜けない、、、

たぶん、人生で何回もない経験を今もまだ、しているんだと思う。
by syohousen | 2011-08-22 23:28 | つれづれと