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真実の所在

なんだか思うのは、誰のせいとか自分のせいとか、
そんなことを追求するよりも
まずは今自分が何をすべきかなんじゃないか。

たしかに責任の所在を明らかにすることは大切なことではあるが、
それは責任の所在を明らかにすることで同じような過ちを
繰り返さないために行うことであって、
責任の所在を明らかにすることそのものが目的ではないはず。

むしろ、自分がよりよい結果を出せるのであれば、
一時的にでいいから敢えて事実を曲解して自らのモチベーションを
かきたてるために利用してしまってもいいんじゃないのかなと思う。


真相を追求することが無価値であるとは言わないが、
ことの真相ばかりを気にするあまり
自らに言い訳を許す隙を与えてしまうことは、とても勿体無い気がする。


また、事実以外のものを下に見てしまうことも、
もの凄く勿体無いことであると思う。

心の底から感動した話がフィクションだったからといって、
その感動の質はノンフィクションの話に感動した時よりも
レベルの低いものでは決してないはずだ。

しかし何故か事実である物語の方がありがたがられてしまうのが
個人的には不思議でならない。


自分は、「事実=真実」ではないと思っている。

そもそも、真実というものは己の中にしか存在ないのだ。

誤解と反省を繰り返しながら、
自惚れと自己嫌悪を繰り返しながら、
己の中の真実を磨き上げてゆく、、、

従って、人の数の分だけ真実がある訳で、
だからそんな「事実かどうか」とか「誰が悪い」とか
そんなことを気にするよりも、自らの心が動かされたことや
次に自分は何をするのが最善なのかなどへ目を向けることの方が、
確実に前進できるし、そっちの方が、断然リアルだ。


自分は、名前が名前なだけに、
簡単に「真実」を手に入れようとする姿勢の人をを見たりすると
どうしても疑問を感じてしまう。

そんなに簡単に手に入る「真実のようなもの」を支えにして
その人は今後生きてゆくとはとても思えない。


まさか「真実」すら使い捨ての時代になってしまったのか、、、

だとしたら「真」という名前の人間として本当に悲しく思う、、、
by syohousen | 2009-12-07 20:54 | ものの見方・捉え方について
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