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見方を真ん中に

人の創り出したものに対して、どうしても「いい」「悪い」で判断してしまう。

そんな発想が建設的でないのは分かっているのだが、
その批評家精神のようなものは
一度習慣付いてしまうとなかなか抜けにくいものであるらしい。

なんだかそんなことを先日知人の演劇公演を観に行った時に感じてしまった。


別に何に対してもすべからく感動することがよいことではないのも分かっている。

が、だからといって、自分勝手なこだわりやら先入観やらプライドやらによって
素直にものを見る目を失ってしまったのならば、それはあまりにも勿体ないことだと思う。

すべからく感動することが必ずしもよいことではないからといって、
それが素直なものの見方を失ってもよいということの理由にはならないはずだ。


別に自分は批評家でも何でもない。
ならば何故、一観客として作品と向き合おうとできないのであろうか。

自分も創り手の側の人間だから?

たしかにそれは理由のひとつであろうとは思う。
しかし、それが己の感動に蓋をしてもよい理由にはならない。

だいたい、批評家であっても
感動したい時に感動しちゃいけないなんて理屈はない訳で、
おそらく心が動けば喜ぶだろうし涙を流したりもするはず。

それに、人より演劇にまつわる事象について沢山のことに気付きながらも、
それと同時進行で身体いっぱいに感動を享受している人だっているのだ。


自分の立場や自分のこだわりによってものの見方を固定してしまい、
それによって貴重な出会いや感動のチャンスを逃してしまう、、、

これは別に演劇に限らずどのような事柄に対して触れる時にも起こり得ることなのだろう。

例えば自分の取り組んでいる表現スタイルとは違う作品に対する見方、
例えば政治家や官僚の意見に対する見方、
例えばマイケル・ジョーダン以後のNBA選手に対しての見方、
例えば最近のイケメン中心のヒーローものに対する見方、
例えばあまり仲のよくない人に対しての見方            などなど、、、

自分で勝手に作り出した前提に縛られてしまい、
そのありのままの姿が見えなくなってしまうことは案外沢山存在する。


まあ、それは人間である以上はある程度仕方のない部分もあるだろう。
しかしだからこそ、そういう見方をしていることに自覚的になることが大事なのだと思う。

そしてたまにはその見方を「真ん中」に戻してみる。手放してみる。

それはとても難しいことではあると思うが、それを忘れてしまっては
どんどんと自らの心の声から遠ざかっていってしまうような気がする。
by syohousen | 2009-08-18 08:41 | つれづれと
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