◆◇◆声と身体の処方箋・定期勉強会◆◇◆
『最低の演技を追求してみよう パート2』 【進行】 ■テキストを使用しつつ自分なりの「最低の演技」を試してみる ■フィードバック&実験 ★以上をひたすら繰り返し 【レポート】 パート1の時はディスカッション中心に行なっていったので、今回は実感を重視したかったので、実践と検証を軸に進行していった。 やはり難しい。 そもそも「最低の演技」というものの概念がはっきりしないため、どこに向かってゆくべきなのか、また、一見酷い演技に見えても、観る側の視点や見せ方によっては成立できてしまう可能性があるのだ。 (これは先日同じテーマで行なった際にも同様の見解が出たのだが、、、) しかし、たしかに「最低の演技」というものにも実に様々な種類の演技が存在するのではあろうが、その数あるものの中に共通する「『最低』と感じさせる普遍的な何か」があるはずである。 そう考えながら色々と実践してゆく中で気付いたことを2点、以下に挙げてみると、、、 ●面白くないと感じさせるためには、まずは観客に不安を与えることから入る この「不安」という感情は、観ている側にとってはかなりのストレスになるはずである。 しかも、その不安の出どころがその作品の創り手の意図するところを大きく外れたところ、、、 要はその演者や作品そのものに対しての不信に起因している場合には、その作品に対しての観客の見方が否定的な見方に直結し易く、その見方を覆すためには相当の労力を必要とすることになるかと思う。 つまりは、「最低の演技」を成立させるためにはまず、観客に不信感を与えて不安にさせ、その見方を否定的な見方に誘導し、観客を敵に回してしまうことが第一歩となるのではないだろうか、という推測が成り立つ。 ここを外してしまうと、どんなに酷い演技をしていても「ヘタウマ」に見られてしまう危険性があり、観客がそういった言い逃れが出来てしまう以上は「最低の演技」からはかけ離れた表現となってしまう。 ●観客無視の発想は、観客を不快にさせる可能性が非常に高い この発想も「最低の演技」を行なうためには非常に重要な要素であると思う。 ただ、同じ「観客無視」であっても、いくつか種類があるため、もう少し細かく分類をしてみると、、、 ・押し付けの反応待ち ・演者のあまりにも強すぎる前提 ・勝手過ぎる間合い(自己陶酔型・自己完結型) などが挙げられる(おそらくはまだあると思うが、今回行なった中で目立ったのはこの3種であった)。 「押し付けの反応待ち」というのは、演者側の人間が、自分だけが観客と双方向のコミュニケーションが取れていると思い込んで自分勝手に一方的に観客へとアクションを起こしているにも関わらず、その行為に対しての観客の反応を待っている状態のことである。 観客が常に自分の思う通りの反応を示してくれるだろうという、実に都合のいい発想で観客と向き合っているため、観ている側は完全に置いてけぼりを食っているような感覚に陥ってしまうし、その上こちらのリアクションまでこちらの呼吸無視で無理に求めてくるため(更にそれでこちらと世界を共有できていると思っている)、本当に強い不快感を感じさせられるのではないかと思う。 2つ目の「前提」というものも、ある程度は表現には必要な要素ではあると思うのだが、それがあまりにも強過ぎてしまうと、やはり観ている側としては強い疎外感を感じさせられるため、「何のために観に来たのか」が分からなくなってしまう可能性が高い。 その最たる例が、「内輪ネタ」である。 これはパート1の時のレポートにも書いたが、下手な内輪ネタを見せられたりした時ほど観ていて冷める瞬間はない。 しかし、例えば「細かくて伝わりにくいモノマネ」などのように面白い内輪ネタ(分かる人にしか伝わらないという意味では物真似も内輪ネタと感覚的には近いはずである)というものもたしかに存在するのだ。 おそらくそれは、たとえ知らない人間には通じないようなネタであっても、少し想像力を働かせれば雰囲気などが伝わったりするようなもので、そのネタが観ている側の想像力を喚起した結果面白くなっているということなのだろう。 そしてそれは、普通の作品における前提(作品の設定や演者同士の共通認識、または演者側と常連客との連帯感など)というものにも通じる部分なのだと思う。 演者側の前提が、観客の想像力を掻き立てるような作用を及ぼしているうちは演者側と観客双方に益をもたらしてくれるが、その前提が度を越して観客の想像力を置き去りにしまうようなことが起こり始めると、今度はその作品に害を与えてしまうという何とも不思議な性質を「前提」というものは持っているらしい。 3つ目の「間合い」に関しても演技を最低にするための要素として非常に重要である。 とにかく、作品や自分の役、相手役との距離感、そして観客との関係性などによって計られるべき間合いを、自らの都合だけを判断基準として設定されてしまうのは、これ以上なく不快感を抱かせられる。 それは「自己陶酔型」の演技であっても「自己完結型」の演技であっても同様だ。 集団創作であるはずの芝居において(それは一人芝居であってもスタッフや観客が存在している以上、集団創作である)、「自分だけに都合のよい間合い」で演技しているようではひとつの作品として違和感が生まれてきて当然である。 まあ、周りの人間が一致団結してその人の我儘の全てを叶えることを目標にした作品を創るならば、そういった発想で演じても違和感が生まれてこないかもしれないが、その際には観客もその人に協力しなければ「その人のための作品」にはならない訳で、果たしてそれが「表現」と呼べるのかは大いに疑問である(「作品」ではあるかもしれないが)。 少なくとも自分は、そんな作品に関わりたいとは絶対に思うことはないので、残念ながら一生お目にかかることはないだろうなと思う。 、、、ある意味、こういう作品こそが「最低の作品」とも言えなくもない気がする(笑) こうして気付いたことを並べ、眺めてみると、「最低の演技」を追求してゆく際には、観客の視点というものを避けて通ることは決してできないのではないかということが見えてくる。 しかしそれは、普通の創作においても同様のことなのではないか。 「最低の演技」を追及する際にも、「よりよい創作」を行なってゆく際にも、その作品を享受する側の視点が大きく関わっているように感じるのだ。 もちろんそれだけではないのだろうが、かなり大きなウェイトを占めている要素であることは過去2回の検証の結果から見ても有力な考え方であると思う。 今後も、この点については継続して追究してゆきたい。 まだまだこのテーマは色々と試せる余地が多く残されているので非常に楽しいし、逆説的な発想からの発見もかなりあるため、今後も継続して行なってゆこうかと。 おそらく、パート3を行なう際には、先に挙げた観客からの視点に加えて、「相手役との関係性」という要素にも踏み込んでみようと思う。
by syohousen
| 2009-08-02 12:13
| レポート(勉強会)
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