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2/23(水) 寺子屋レポ

2/23(水)18:00~21:30
『俳優って?を考え続けてゆくための寺子屋』
@清沓仲通会議室・洋室1

【進行】
■この一週間のフィードバック(観た作品など)

■渡されたテキストをまずはフラットに読んでみる
→名詞部分を「あれ」に置き換えて読んでみる
→元に戻して再び読んでみる
→フィードバック
→もう一度名詞部分を「あれ」に変えて読んでみるのだが、その際に置き換える前の言葉の持つイメージをより具体的に持って「あれ」部分を読んでみる
→元に戻して読んでみる
→フィードバック

■現在の身体状況を言葉にして垂れ流す×3周

■手足を揺する
→捻る、伸ばすなどのアプローチも加えてみる
→軽くジャンプしながら息を抜いてゆく(ため息的な声なども漏らしつつ)

■王様マッサージ×2

■先に使ったテキストで、再び名詞部分を「あれ」に置き換えてみて読んでみる
→フラットに戻して読む
→最初に同様のことを行った時との感覚の違いをフィードバック
→具体的な設定を加えた上で「あれ」に置き換え読んでみる
→設定はそのままで言葉は元に戻して読んでみる
→フィードバック

【ふりかえり】
今回の寺子屋では、身体のことについては必要最低限に止めておいて、テキストを用いた「自らの思い描いているイメージ」と「実際に声に出して行う発語」との距離感を再度見つめ直してるためのアプローチを中心に行ってみた。

とは言っても何のことはない、読むテキストに書かれている名詞を「あれ」という指示語に置き換えて読んでみる、というだけのことだったりする(但し置き換えるのはそこまで名詞であることに厳密ではなく、動詞や形容詞も混ぜてもよい感じ)。
しかしたったのそれだけのことでも、実際に行ってみるとその読み手の人間の身体の特性や、言葉一つひとつに対する向き合い方のようなものが露わになってくる。

面白かったのは、「あれ」に置き換えて喋っている時の方が聞いている側としてもあまりしつこく感じなかったことで、元々の言葉で読んでいた時の方が聞き手に言葉を押し付けられているように思えたほどだった。


イメージを持つことはたしかにとても大事なことだとは思う。

がしかし、そのイメージもあまり大事にしすぎると聞き手にとってはこってりとした味わいになってしまう危険が潜んでいることも忘れてはならない。
どんなに手塩にかけて育てている花であっても水や肥料を与え過ぎれば枯れてしまうし、どんなに丹念に煮込んだスープであっても煮込み過ぎてしまえばその美味しさは半減してしまうのと一緒だ。
もちろん自らの中で思い描くイメージが大事なものであることには変わりはないのだけれども、それと同時に、その思い描かれたイメージを聞いている側の人間達に余すことなく振舞うことのできる太っ腹さのようなものも発語の際には大事なことなのだと思う。


また、「言葉のイメージを他者に伝える」という行為は自分一人だけの問題なのではないのだ、という点も忘れてはならない。
聞き手の想像の入り込む余地がなければ、どんなに見事なイメージを備えた言葉であってもすんなりとは聴衆の耳に入ってこないこともあり得る訳で、だから自分の中でだけで完結させようとしてしまっては、なかなかうまくはいかない気がする。

ただ、別に聞き手の想像が入り込まないくらいに完成されたイメージを持つことが悪いという訳ではなくて、どこまで聞き手の想像を入り込ませたいのかを明確にする必要があるということで、例えば、

こちらの働き掛けによって聞き手の想像を引き出させたいのか、
こちらで完成させたものを聞き手が完全な鑑賞者として味わって欲しいのか、
それとも双方向で想像を喚起させ合いたいのか、

など、そのいずれであってもそのアプローチは違ってくるのではないか、ということだ。

「言葉のイメージを他者に伝える」という行為は聞き手との共同作業なだけに、そこの点での距離の取り方は非常に重要な要素だと思う。


今回行った「あれ」への置き換えは、以上の点についてを見つめ直すためには非常に有効なエクササイズだと実際に行ってみて実感した。
今後も、このエクササイズは使ってゆきたいなと思う。
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by syohousen | 2011-02-28 14:51 | レポート(主催) | Comments(0)

出典を明かすか、否か

受け売りの言葉を使う時は、
ちゃんと誰の言葉であるのかを明らかにしてから
言う癖をつけておいた方がいいんじゃないかなって思う。

でないとそれを言った本人に知られた時に
その人は先ずいい気分はしないだろうし、
その言葉について誰かに問われた時にも
自分の言葉ではないのだから
果たして十分な回答をできるのかも疑問が残る訳で、
結局最終的に損をするのは自分になるんじゃないかって気がする。


これはネット等で自分が知っている情報を語る際に
そのソース(情報元)を明らかにするかしないか
という事例にも通じることなのだけど、
その情報なり発想なりを与えてくれた人物に対して敬意を払っていれば、
受け手に自分の言葉だと思われないような配慮をできるはず。

それにせっかくの素敵な発想や重要な情報でも、
出典から離れてゆくほど伝わってゆく中で
その本質から離れていってしまう可能性も否定できない訳だから、
出典を明らかにしておいて話の一人歩きが発生した時にでも
すぐに元に戻れるようにしておくようにしておくのは
とても大切なことだし、最低限の責任だと思う。

だからやはり出典を明らかにせず
まるで自分の考えであるかのように語るというのは、
無責任&失礼極まりない行為だと思うので
少なくとも自分は絶対にやりたくないなと。

てか、そういうのって案外簡単にばれるだろうしさ。


や、まあ、これは自分の考え方なので
別にそれを他者に強要する気もないのだけれどもね。

でも、なんか、それでいいのかなぁとかは正直なところ、思ってしまう。
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by syohousen | 2011-02-27 10:52 | つれづれと | Comments(0)

“執着”がない作品って、

“執着”の感じられない作品って
どうも自分は心惹かれないんだよなぁ。

よそ行きの小奇麗にまとめられた出し物みたいなものは
他にも沢山世の中には溢れているから、
別にその人達の作品でなくても構わないやーってなっちゃう。


まあ、個人的な好みの問題なのかもしれないんだけどね。


でも、なんでやってんだろ、演劇にせよ何にせよ、
何かに対しての執着の感じられない作品ばかりつくる人達って。

だって、綺麗にまとめることだって
徹底していればそこに執着は感じる訳だし、
それすら感じられないってどういうことなんだろうか。

だからむしろそういう人達の場合は
動機部分の方が興味があるな、作品よりも。

別にいい悪いとかでなく、単純に興味があるわ。
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by syohousen | 2011-02-26 22:53 | つれづれと | Comments(0)

どんなに外見がよかろうが、

恥じらいのない人には、
どんなに美人であろうが可愛かろうが全く欲情しないんだよなぁ。

うーん、、、品って大事ねやっぱ。
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by syohousen | 2011-02-25 18:41 | つれづれと | Comments(0)

意識を変えることの方が大切だと思う

バリアフリーにせよ何にせよ、
呼び方とか言葉をどんなに取り繕ったって、
どんなに物理的な環境を整えたって、
一人ひとりの意識が変わらなきゃ何にも変わらないでしょ。

まあ、呼び方や環境を変えてみることで
意識を変えようという意図が明確にあるのならばいいんだけどさ。

でも、変えただけで手を打った気になってるのならば、
それはピントがずれているとしか言いようがないと思う。
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by syohousen | 2011-02-24 09:21 | つれづれと | Comments(0)

2/22(火) 読み会レポ

2/22(火)18:00~20:30
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』
@久我山会館・第三会議室

◆使用テキスト:宮沢賢治『オツベルと象』

【進行】
■段落毎に交代で読む
→フィードバック

■地の文、オツベル、象と分担して読む
→フィードバック

【印象的だった意見や言葉】
●オノマトペのひらがなとカタカナの使い分けが見事で、元々独特で印象深い言語表現が更に際立って印
象に残る

●段落の切り替わり方がシーンのスピード感と密接に結び付いていて、特に後半は段落の切り替わりが最低限に止められており、それが畳み掛けられるような言葉の疾走感を表していたように感じる

●ビジュアルの描写が現実的ではないのに、何故か違和感なく想像することができるのがすごい

●オツベルの感情の流れの描かれ方が実は非常に細やかに描かれていて、もし役者としてこの人を演じるとしたらその繊細さを掴むまで物凄く難しそうな気がする

【ふりかえり】
いい作品というものは、触れる度に新たな発見を与えてくれるものなのだなということを改めて実感。
これまではあまり気にも止めていなかったところが、少し読み方を変えてみるだけで引っ掛かりとして気付くことができ、それまでとはまた違った味わいをもたらしてくれる。

その証拠に、今回のフィードバックでは、作品そのものに対する気付きの部分での意見が多く出たし、一つひとつの話題の持続具合もとても長く、まだまだ話し足りないくらいだったようにも思えた。
そして、そうして振り返った後に再び読み返してみると、また違った作品のよさが無理なく見い出されてくる、、、という素敵な循環が生まれていたように感じた。

これは本当にいい傾向だと思うし、こういう時ほどやりたいことも次々と浮かんできたりもする。

なので、このテキストは来月も引き続き扱ってゆくことにした。
せっかくのいい流れを無駄にしたくないからだ。

また、それに加えて別の宮沢賢治作品も来月は扱ってみようかと思っている。
そうした読み比べ的なこともまた新たな発見を促してくれるひとつのきっかけにできるかと思うので。

この読み会の利用の仕方も、だいぶいい感じに選択肢が増えてきたのは嬉しい限り。
これに満足せず、今後も日々進化させてゆきたいなと思う。
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by syohousen | 2011-02-23 13:02 | レポート(勉強会) | Comments(0)

自らがやったその先のことにまで、

昨日、NBAのオールスター戦が開催されていたのだけれども、
観ていてNBAの選手から見習うべき点(バスケ関係なしで)のひとつとして
どんなにアクロバティックなプレイをしても
絶対に着地後までは意識を切らないとこが挙げられるなと思った。

自分のやることだけやってもうお終いってことにせず、
ちゃんと自分のプレイのその後についてまで責任を持てている。

たぶん、だから怪我も最小限に止められるのだろうし、
それよりも何よりもちゃんと己の動きに責任を持ち律していることが
一つひとつの動きに美しさや品をもたらしてくれるんじゃないかなって気がした。


自らがやったその先のことにまで責任を持つってことは
やっぱ大事なんだろうなと、思わぬところで実感させられた。
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by syohousen | 2011-02-22 13:25 | つれづれと | Comments(0)

当たり前なだけに、

案外、大切にしなきゃならないものって言葉にしてみると
「何を今更」とか「そんなの当たり前のことじゃん」とか
言われてしまいそうなものが多かったりする。

でも、当たり前のことって当たり前なだけに、
正しい形で習慣付けるのが難しいんだってことを
ちゃんと理解している人って少ない気がする。
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by syohousen | 2011-02-21 12:48 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

だからこそ、続けられるのだろうなと、

先日仙台へと公演を観に行った劇団が、今度大阪でも公演を行うのだが、
その旅公演を迎えるにあたって主宰のⅠさんが若手の団員へ向けて、

「旅慣れない若手、中堅は心配な面もあるようだが、わしらは芝居をやりに行くのだ。
 宛て無き自分探しの旅ではない。あっという間の1週間だと思う。」

というコメントを自身のブログに記していた。


何てことはない当たり前のことでもあるかもしれないけれども、
数十年演劇を続けてきていて旅公演の経験も豊富な方でありながら
こういう基本的な心構えにをしっかりと抑えていることは本当に素敵だなって思う。

きっと、こういう意識を持ち続けていられるから、
数十年も続けてゆけるのだろうな。

自分もかくありたいものだと、つくづく思う。
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by syohousen | 2011-02-20 11:17 | つれづれと | Comments(0)

粋かどうかは、物じゃなくて人の問題

電車内でよく見掛ける
扇子をばさばさあおぐ人を見ていていつも思う事、、、

あのね、扇子を使う事が粋なんじゃないんだよ。
扇子をどう使いこなすのか、そこで粋かどうかが決まるんだよ。って事。


まあ、粋ってものを気にしてないのなら別にいいんだけどさ。
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by syohousen | 2011-02-19 20:16 | つれづれと | Comments(0)