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改めて、「俳優が発声を学ぶ」ということについての私見を、

誤解して欲しくないのは、
俳優が発声を学ぶのは「いい声の獲得」のためではないです。


俳優が発声を学ぶことのメリットは

「役として必要とされる声を、日々変化し続けている身体の状態に
 左右されることなく安定して出せるようにするための回路を構築できる」

という点と、

「声帯に過度な負担のかかる声が役との兼ね合いで必要となった際に
 その質感を保ったままで負担を軽減させるための道を探ることができる」

という点にあります。


そしてその実現のために、

「まずは自らの身体を知り、そして声の仕組みを知る」

ということを日々の発声訓練を通して行うのです。


また、発声を学ぶことは、「いい声」などという
あまりにも抽象的で実体のない幻想のようなものを払拭し、
自らの身体に沿った声がどんな声であるのかを
実感するために非常に有効な手段でもあります。


なんというか、「発声」という言葉がそれらの点において
かなりの誤解を受けているなと日々の活動の中で感じているため、
改めて書かせて頂きました。
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by syohousen | 2011-01-31 15:19 | 声・身体について

努力って、

努力とかって、当たり前の最低限のことですよね。

なんか、なんでそんなに頑張れるのかとか
そういう疑問を持つこと自体が分からないというか、
好きなことでそれを長い間続けたいと思うのならば
それを続けるために手を尽くすのは当然のことなんじゃないかなって。


要は、本気かどうかの問題なだけで、
本気だったならば、努力は特別なことじゃないはず。

だから、努力をすることに対する過剰な賞賛も、
変に隠そうとすることも、別に必要のないことなんだと思います。

まあ、でなきゃ続けらんないです。

特別なことだったら続けられる訳がないし、
逆に言えば続けられるのならばそれはもう特別じゃないってことですから。
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by syohousen | 2011-01-30 10:18 | つれづれと

前進しようとするから、

独自の道を歩みつつ新たなことへ挑み続けている人の行うことに対し、
多数派という安全圏に身を置きつつその数を頼りにして
いちいち揚げ足を取ろうとするのは、いい加減迷惑だから止めて欲しい。

そもそも、前進しようとするから転ぶ訳で、
その場から一歩も動こうとしない人間には
転ぶことすらできないんだってことを早く理解した方がいい。


それまでの慣習や常識を打ち崩すってことは
そんなに簡単なことじゃないし、一度や二度の躓きじゃ済むはずがない。

それなのに、ちょっとでもうまくいかないところが出てくれば
「ほれ見たことか」と躍起になり嬉々として突っ込み始める人間がいる。

はっきり言ってそんなのは“挑む”ということの
困難さを知らない甘ちゃんの行動でしかなくて、
自らの無知さ、愚かさを周囲に公言して回っているのと同じだ。


まあ、別に自らで動こうという勇気がなくてもいいよ、
そればっかりはもうその人の性質の問題だから仕方ない(や、仕方なくないけど)。

でもさ、だったらせめてそういう人の足を引っ張ることだけでも止めようよ。

同意とか協力とかもしなくていいから、足引っ張るのだけは止めようよ。


なんか、そんなことを最近よく思ってます。
どの世界とか関係なしで、色んなとこで思います。
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by syohousen | 2011-01-29 14:05 | つれづれと

大きな流れは結果でしかないよ

業界とか社会とか国内とか世界とか、
そんなぼんやりとした大きなものの中で
他と比較しての一番の存在になることよりも、
具体的な誰々とかどこどことか、
そういう目に見えてる人達にまずは必要とされる事の方が価値があるし
大事なことなんじゃね?ってほんと思う。

あくまでも大きな流れは結果でしかないし、
だからそんなものを自分一人で作り出せるとか思うのは自惚れだよ。
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by syohousen | 2011-01-28 11:09 | ものの見方・捉え方について

1/26(水) 寺子屋レポ

1/26(水)18:00~21:30
『俳優って?を考え続けてゆくための寺子屋』
@和田会議室・和室

【進行】
■この一週間のフィードバック
■現在の身体状況を言葉にして垂れ流す×3周

■手足を揺する
→歩き出し、身体で気になる部位を伸ばす、擦るなどのアプローチを加える
→空間にあるものへと触れてみる
→身体の表面を全て壁に触れられるように色々と試してみる
■触れる対象を壁から畳に移行させてゆき、畳を利用しながら自分の身体で気になるところをほぐしてゆく
→段階的に身体を畳から距離を離してゆき、最終的に立ち上がる状態にまでする
■ある程度の時間、これまでに行ってきたことの結果生まれた身体の変化やその余韻を味わった後、歩き出してみる
→部屋全体が、部屋の真ん中一点でバランスをとっているヤジロベーになっているとイメージし、自分が移動する度に部屋のバランスが変化してゆくことを感じつつ歩いてみる
→他の人のことも見ながら全員で部屋のバランスをとってみる
→バランスが取れたら、そのバランスを維持しながら真ん中に寄ってみる
→同様に、離れてみる
■手を叩いたらフラットな状態に戻り、再び歩き出す
→雪原をイメージして歩いてみる
→足裏に何の色でもいいからペンキが付いているとイメージし、自らの足跡に色が付くことをイメージし歩く
→他の人の足跡も意識してみる
■手を叩いたら再びフラットな状態に戻り歩き出す
→部屋全体に泡が満たされているイメージを持ち、動く度に自らの身体の型が残ってゆくイメージを持って動いてみる
→泡のイメージは継続させつつ、たまに他の人の動きも真似してみる
■手を叩いたら再びフラットな状態に戻り歩き出す
→手を筆に見立て、何もない空にその筆で何でもいいので描いてみる
→自分の身体から距離のあるところへ向けて大きく描いてみる
→徐々に描く範囲を小さくしてゆき最終的には動きそのものを収めてゆく
→動きが収まったら楽な姿勢で立ち、今まさに身体に起こっていることをじっくりと味わってみる
■フィードバック

◆休憩

■いざない
→フィードバック

■立ち座り
→フィードバック

【ふりかえり】
今回の寺子屋では、一つひとつのエクササイズについて物凄く丁寧に行えたように感じていて、こういったWSを行うにあたっての初心を思い出すことのできたいい時間になれたような気がした。

とにかく目の前で起こっていることだけを信じ、それらを受けて自らの中に生まれてきたものに素直に従う、ということを確実に行ってゆくことに没頭できたのだ。


そうしてゆく中で気付いたことは、エクササイズ単体での成果にそこまでこだわることはないのだろうなということだった。

同じエクササイズを行っていても、時と場所が変われば前に行っていた時とは違った結果が生まれるのは当然のことであり、だからその結果そのものにこだわるのではなく、そこで起こっている現象そのものをこちらでしっかりと見極め、次にどこへ向かってゆくべきであるかをその瞬間に判断してゆく方が参加者にとっての発見は無理なく増えてくるし、また、その一つひとつの発見も身体に馴染み易くなってくるようなのだ。
だからエクササイズ毎にいちいち気持ちを入れ換えて場を進めてしまうのは、せっかくその時その場でしか存在していない何かが育ってきていたのにそれをリセットしてしまうことに繋がるので、もしかしたらもっともっと深まるかもしれなかった参加者の中での発見の可能性を摘み取ってしまうことになるんじゃないかと思うのだ。


その瞬間にその場で生まれてくるものをうまく捕まえて、次の進行を判断する。

そう言葉で言うのは簡単だけれども、こんなにも難しいことはないと思う。
まして参加者が増えてきたりすれば、その困難さは更に増してくるだろうとも思う。

しかし、自分自身が思い描く理想に近付くためには決してそこは避けて通れないとも思っていて、また、決して無理なことでもないと思っている。
だったら挑まない理由はない訳で、そして挑むからには、それ相応の努力を普段からこれまで以上に行ってゆかねばならない。

まあ、とにかくがむしゃらにやってみればいいんだと思う。
そうしてゆく中でしか、見えないこととかもある訳なんだから、そこに躊躇いを差し挟む余地なんか一切ないはずだ。

あと、そういう気持ちを持とうとするだけではたぶん不十分だと思うから、環境の方も、がむしゃらにやらざるを得ないような状況に仕立て上げる必要があるかもしれない。
もう、とにかく考え得ることは全部やるくらいの気持ちで、闘ってゆきたい。
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by syohousen | 2011-01-27 12:31 | レポート(主催)

リアクションが欲しいなら、

周りからのリアクションが欲しいのならば、
まずは自分から何かしらのアクションを起こしてゆかなきゃ。

やることやらずに与えられることだけ望んでいたって
何も事態は変わりはしないよ。
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by syohousen | 2011-01-26 10:31 | つれづれと

何がお互いにとって大切なのか、なんだよなぁ

これは自分の場合の話なのかもしれないのだけれども、
自分は特別に仲のいい人と会う時、
その会うことに対して特に理由なんかなくて、
ましてや話題の有無なんか重要ではなかったりします。


実際にも、例えば2人で飲みに行ったとして
数分間無言になっても全く問題がなかったりするし、
むしろその時間すら心地良かったりもしているくらいなんで。

たぶん、その無言の時間も、
それはそれで大切な時間だからなんだと思うんですよ。


なんか、話題がなければ、とか、目的がなければ、とか、
そういう目に見えて分かり易いことでしか成り立たない関係って、
その繋ぎ止めている何かがなくなってしまえば
特に必要がない関係だってことだとも言えてしまう訳で、
まあでも、別にそういった関係が悪いとは思わないし、
生きてゆく上では必要不可欠なことだとも思うのだけれども、
ふと自らの歩んできた道を省みてみた時に
ああ、俺ってそういう関係だけしか持ててこなかったんだなってなったら
それはとっても寂しいことだなぁって、
自分の場合、きっとそう思ってしまうんだろうなって気がするんです。


だから、何も話すことがなくても一緒にいられる人、
それでも一緒にいたいなって思える人って自分にとって物凄く貴重だし、
とことん大切にしてゆかなきゃなって思ってます。
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by syohousen | 2011-01-25 10:34 | つれづれと

1/23(日) 「蒙昧の会」レポ

1/23(日)13:00~ 「蒙昧の会」@神田明神→湯島聖堂

【ふりかえり】
この「蒙昧の会」は、勉強会メンバーであるTさんの紹介で参加させて頂いた句会(俳句の会)で、どこか場所を決めて集まり、初めにその場所を散策した後にそこでの体験を元にして各々が俳句を詠み、その詠まれた句について皆で意見を交換し合う、という会とのこと。

自分も今回が初参加で右も左も分からぬままに飛び込んでみた訳なのだけれども(そもそも自分は俳句自体を詠んだ経験が全くない)、勇気を振り絞って参加しただけの価値はあったなと言えるだけの体験をいくつもさせてもらえた。
しかもこの日は後ろに予定が入っていたためたったの1時間だけしか参加はできなかったのだが、それでも驚くほどの発見とそれに伴う変化が生まれていたのには驚かされた。
やはり普段の自分が身を置いている世界とは違った場所へ飛び込んでみるというのは大事だなと、つくづく実感させられた。

いくつかあった発見の中でも最も面白かったのは、俳句を詠むということを意識してみると、外界(空間だけでなく、音や皮膚感覚なども)に対する向き合い方がこれまでの自分にはない向き合い方になっていたことだった。
これは自分がよくWSなどで行っている空間への働き掛けに関するエクササイズにも根底の部分では通じるものがあって、何となくで空間を眺めるのではなく、何か具体的な目的を持って積極的に空間へとアプローチをかけてゆく中で空間についてを知っていった方がより具体的に、また思いもしないような発見を生み易くなってくるのが原因なのだとは思う。

まあ、だから俳句を詠むことを意識することで向き合い方に変化が生まれるなどということは特段珍しくも何ともないごく当たり前のことなのかもしれないのだけれども、その当たり前のことに気付くっていうのが実は難しくて、普段自分が身を置いている場所から少し距離をとってみないと分からないことが多い。
それに「句を読む」という行為の場合、もっと色々な感覚を駆使しなければとてもじゃないけれども行えないし、詠むことを継続し積み重ねてゆくことで、より自らの目に映っている世界の見え方に変化が生まれてくる訳だから、ある意味外界への働き掛けとしての究極形のひとつであるとも思えてくる。

だいたい、句を詠むという行為に見返りを求めるなんてことはこの上なく失礼に当たることだし、そもそも詠む際にそんな余計なことはたぶん考えてられないんじゃないかなと思う。
ただただ目の前の現実に対して殉じてゆくことだけを考えるから、詠めるんじゃないかなと。


もうひとつ、実際に句を詠んでみて面白いなと感じたことは、「言葉の手触りってこんなに多彩だったんだな」ということ。
また、文字数が限られているということが影響しているのか、言葉の組み合わせによって「言葉の手触りの化学変化」のようなものが生まれ、その一つひとつの言葉単体では味わうことのできなかった未知の感触を、ひとつの句として連ねてみた時には味わうことができるようになっていたのが物凄く興味深いなと思った。

俳優ってこういう言葉に対する繊細な感覚を持つことはとても大切なんじゃないかなって思うから、俳句に取り組むのもいいんじゃないかなって気がする。
なんか、そしたら可能性が色々と拡がるんじゃないかなって。


本当に、いい経験をさせてもらえた。

自分がこれまでに集めてきた引き出しの中のストックが全く役に立たない状況の中で精一杯もがくのって、自らの世界を拡げるためにはとても大切なことだし、たぶん飛び込んだ先の方達にとってもいい影響をもたらせているんじゃないかなって思う。
だから、恥をかくことに対する少しの恐怖心を乗り越えて未知の世界へと飛び込むことは、今後も継続して行ってゆきたい。

もちろん、この「蒙昧の会」も今後継続して参加してゆきたいなと思っている。


このように素敵な出会いのきっかけを与えてくれたTさん、ありがとうございました!
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by syohousen | 2011-01-24 16:42 | レポート(外部受講)

真ん中

中道とどっちつかずって、全然違うと思うんだ。

まあ、今更改めて言うことでもないのかもだけど。

でも、結構混同されてるよね。


真ん中って、維持しようと思ったらめちゃくちゃ消耗するし、
少しの油断ですぐ寄っちゃうから、
意識的にそうあろうとすることって実は物凄く難しい。

どっちつかずでふらふらしていることと
並べて語ることなんか到底できやしないですよ。


別に中道であることが必ずしも素晴らしいことだとは思わないけれども、
中道であることがどうしても必要になる時ってあるし、
そういう時に、どっちつかずになってしまうことは嫌だなぁって思う。
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by syohousen | 2011-01-23 09:29 | ものの見方・捉え方について

技に溺れぬよう、

よく、指導の場で知ってか知らずか
コールド・リーディング(知らない方はこちらへ)の
手法を用いる方が多いのだけれども(まあ、それが重要だからなのだろうが)、
このやり方は指導において非常に有効な部分と危険な部分が
混在しているやり方なので、細心の注意を払って取り扱ってゆかないと
後で取り返しのつかないようなことにも
繋がりかねないのではないかという気がします。


相手に自らを信じてもらうこと、
それはたしかに指導を行う上での第一歩目として
非常に重要な要素ではあるとたしかに思います。

が、それが過剰になってきてしまうと
相手は自分の意見を何でも正しいものとして
とらえてしまうことにも繋がりかねず、
それは指導を行う人間にとっては非常に危ういことでもあります。


コールド・リーディングのような(受け手として)不可思議な驚きは
指導における導入の段階で止めておかないと、相手は自らで考えることを止め、
全てをこちらの意見の通りに思考するようにもなってしまいかねません。

「何故そんなにも分かられてしまうのか分からない」という驚きは
“恐怖”の感情と非常に近しい関係にあるため、
心情的にはより安心できる方へと思考が流れてしまい易いからです。

しかしそれは指導の本来の目的に反することのはずです。


別にこの手法が悪いと言っているのではありません。

実際、自分も自らの指導を追究してゆくうちに
自然とこの手法というか考え方が身に付いてきた訳ですし、
今現在もこの手法を指導の現場では結構用いております。

しかし、それは初めての人を相手にする時だけで、
あとはもう、どうしても必要な状況下でしか自分は使いません
(まあ、その技術を応用して取り入れてみたりは結構しているけれど)。

また、今後の指導に支障のない範囲で
その種明かしも極力行うようにしてもいて、
ちゃんと根拠があるから言い当てられるんだという、
決して超能力的な能力で以て言い当てた訳じゃないんだということを
理解してもらえるように心掛けてもいたりします。


でないと、指導における適度な距離感が保てない気がするのです。


たしかに恐怖心を利用すれば
簡単にこちらを信じ込ませることはできるでしょう。

そして己のことを信じ込んだ人が
自らの思い通りになってくれるのは、
なかなか悪い気分のしないものでもあります。

しかし「信じてもらう」ということは
あくまでも指導におけるひとつの手段でしかないし、
そもそも恐怖心を煽って無理矢理作り出した信頼なんてものは
それ以上の恐怖と出会えば簡単に破綻してしまうものでもあると思います。


だから、必要なのはもっと深いところでの信頼関係であり、
それはやはり地道な努力によってしか得られないのだと思います。


技に溺れぬよう、常に自らを律して指導には臨んでゆきたいなと。

心からそう思います。
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by syohousen | 2011-01-22 14:40 | 指導について