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受け身では、

このところ、なんとなくだが停滞を感じ始めている。

たぶん、この真綿で首を絞められるような、
明確ではない、ぼんやりとした苦しみから
目を背けてしまうことはとても危険なことのような気がする。

こういう時だからこそ、現状をしっかりと見据えて、
今の自分には何ができるのかについて
徹底して考え抜いてゆかねばならないのだろうなと思う。


必ず、事態を打破するための鍵はあるはずだ。

そしてそれは、誰かに見付けて貰おうなどと
他者の力を当てにしていては決して見付からないものだと思う。

やはり自分の力で流れは持ってくるしかないのだろうし、
そこでたとえ他者の協力を仰ぐことが必要になったとしても、
まずは自分から動いて働き掛けてゆくことが大事だ。

受け身では、何も始まらない。
そこを、忘れてはならない。
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by syohousen | 2010-06-30 21:55 | つれづれと

「笑わせる」という職人芸

先日、出演者全員がお笑い芸人だけで
構成された芝居を観に行ってきた。

観ていて感じたのは、
個人個人の観客を楽しませる能力に関しては
やはりお笑い芸人の人達はモノが違うなということ。

なんというか、観客に対しての優しさの質が違うなと。

まあ、それも当然の話で、お笑いの世界で生き残ってゆくためには
文字通り「笑わせられるかどうか」が全ての評価の基準になる訳だから、
そのシビアさといったら並大抵のものではないのだと思う。


観客との呼吸の掴み方や言葉や動き一つひとつに対する気の配り方、
また舞台上のリズムの組み立て方など、
作品を構成するあらゆる要素が「観客からどう観られるであろうか」
というところからスタートしていて、
しかもその徹底具合もそんじょそこらの芝居などとは比べ物にならない。

が、だからといってガチガチに段取りで固められているという訳でもなく、
その場の観客との呼吸のやり取りの中でいくらでも変質させることが
可能な柔軟さもそこには備わっていたりする。


まあ、俳優もこういう点についてはよく考えてはいるとは思う。
が、明らかに俳優とはそのこだわり方に決定的な違いがあるように感じた。


別に俳優が観客に優しくないとか面白くないとか言っている訳ではない。

ただ、俳優の作品や言葉との向き合い方とは全く違っていて、
だからこそ、それぞれで得手不得手な作品があるんじゃないかと思うのだ。

瞬間的に観客の心を掴み、楽しませるという点においては
そりゃあプロだからお笑い芸人の方が長けているかもしれない。

が、作品の一部として、作品全体を通じての感動を生み出す力は
やはり俳優の方が長けているはずだし、
また長けていなければ俳優としてのアイデンティティが成り立たない。


但し、これは「そういう傾向があるのではないか」という推測の元に
導き出した考えでしかないため、これが全て正しいと言うつもりはない。

当然人間一人ひとりで芝居との向き合い方には違いがある訳だし、
そこには俳優であろうとお笑い芸人であろうと例外はないはず。

しかし、自らの本職が目的としているものが違う以上、
作品との向き合い方や得意とする分野に
その影響が出る可能性は高いのではないかと思うのだ。


だからこそ、それぞれの適正をうまく見極めた上で
舞台作品の創作に向き合ってゆくことはとても重要なことなのではないかと思う。

少しばかりウケたからといって俳優がお笑い芸人のように振舞えると勘違いし
芝居の中で安易にお笑いの真似事をし始めたりしてしまうのは、
常日頃から「人を笑わせる」ということについて
徹底的に考え抜いている芸人の方々に対し、あまりにも失礼なことだ。

俳優には俳優としての「人を笑わせる」ということとの
向き合い方があるはずで、そこを勘違いしてはならないと思う。

そして、逆もまた然りで、
芸人には芸人としての「演劇」との向き合い方があるのだと思う。
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by syohousen | 2010-06-29 16:22 | つれづれと

借り物の言葉ではなくて、

非常に仲のよい女優さんであるUが、
自身のブログにて自分のことを書いてくれていた。

人から紹介されるというのはなかなか照れ臭いものだなとは思いつつも、
その人との関係性だからこそ生まれてくる言葉で表現してくれもらえるのは
どのような内容であってもやっぱり嬉しいものなんだなって思った。

逆に、月並みな言葉でしか書かれていないのだとしたら、
それがどんなに賞賛の言葉で埋め尽くされていたとしても
たぶんあまり嬉しくはないんだろうなって気がする。


自分も、可能な限り借り物の言葉ではなく、
己の中から自然と出てきた言葉、
相手との関係の中から生まれてきた言葉で語れるようにしたいなと思った。
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by syohousen | 2010-06-28 21:33 | つれづれと

6/23(水) 寺子屋レポ

6/23(水)18:00~21:00
『俳優って?を考え続けてゆくための寺子屋(仮)』
@野沢地区会館・小会議室

【進行】
■現在の身体状況を言葉にして垂れ流す
→歩き出してみて、身体状況を言葉にしてみる
→そのまま歩きつつ、身体の気になるポイントを手で擦ってみる
→同様のことを、楽な姿勢になって行ってみる

■まず、足の指を、1本1本、動かせる範囲いっぱいに色々と動かしてみる
→その動かせる領域を、足の甲、足の裏、足首、膝から咲、股関節から先、という順で、徐々に拡げてゆく
■同様のことを、手の指から手の甲、手の平、手首、肘から先、肩から先、肩甲骨から先の順で、行う
■同じく、腰、胴、胸、肩周り、首、顔、頭皮の順でその範囲を拡げつつ、動かしてゆく

■身体状況を言葉にしてみる

■手を筆に見立て、色を塗ってゆくようなイメージを持ちながら手で空間をなぞってゆく
→大きくなぞる意識を持ってみる
→手に風のような質感を持たせるイメージを持たせつつなぞってみる

■身体状況を言葉にしてみる
■フィードバック

◆休憩

■何を行うのかは一切告げず、3分ほど時間を設けて空間を色々と観察してもらう
→その観察したことを元にして、その空間をガイドをしてみる
→もう一度3分時間を設けて、今度はガイドすることを前提として空間を観察してもらう
→先ほどと同様に、観察したことを元にその空間をガイドしてもらう

【レポート】
自分は、結構な割合で必要最低限の説明しかせずにエクササイズに臨んでもらう形式を取っているのだが、それは何故かといえば、その人が何かしらのミッションを与えられた際に、その説明をどのように捉え、そのミッションとどのような向き合い方を選択ゆくのか、という点についてまでを、新たな自らの発見のために利用して欲しいからである。

思うに、こちらの指示の捉え方や向き合い方を一つひとつフィードバックしてゆくことで、自らの思考の傾向などが浮き彫りになってくるのではないか。
そしてそれは、俳優としての自分が、戯曲や演出の指示と向き合う際のちょっとした「癖」のようなものに気付くきっかけとなるかもしれない。


だから、別に参加者の方々がこちらの意図通りに動いてくれなくても全然構わないと思っているし、また、こちらから与えたミッションが全て失敗に終わってしまったとしても、それはそれでいいと思っている。
むしろ、どんどん失敗して欲しいとさえ思ってもいて、こちらとしては、参加者がそのミッションを失敗した時こそが、指導者としての腕の見せ所であると考えている。

以前、このブログでも書いたことなのだが、柔道では「受け身」を身に付けることを真っ先に教えられる。
それはつまり、「如何にして失敗と向き合うか」を身に付けるということでもある。
自分が指導の際にかなりの比重で重視していることはこの「受け身」の思考回路の構築で、そのためにはまず、「自らで考える」ことから入って欲しいのだ。

最低限の条件だけを与えられた中で自ら考えた結果だからこそ、己の何が原因でその失敗に到ったのかが分かる訳だし、もし仮に失敗せずとも何度かそのような「自らで考える」という経験を重ねてゆく中で自分自身の発想の傾向が見えてくるのではないかと思う。
まあ、そのためにはこちらから与えられたミッションへ全力で取り組んでゆかねばならないのだが。


そこのところでの参加者の誘導の仕方が、自分はまだまだ甘い気がする。
たぶんリズムが大事なんだろうなと思う。
若干だが、指示の与え方に余計な言葉を加えてしまったりして、参加者がそのミッションに臨む気持ちに迷いを与えてしまうような隙を生んでしまっているのではないか。

もっと参加者と自分で作り上げているその瞬間の空気に身を委ねてみてもいいと思う。
そのためにはまず、自らの指導者としての皮膚感覚を信じるところからだ。

己の感覚を信じることができないから“理”でカバーしようとしてしまうのが自分の悪い癖だってことは、これまで何度も味わってきたことじゃないか。
次のステージに進むためにも、そろそろその癖からは卒業できるよう努めるべきだ。
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by syohousen | 2010-06-27 14:07 | レポート(主催)

「なんだかなあ」の批判って、

「なんだかなあ」と感じてしまう批判の多くは、
その批判している対象についての見方が
自らにとって都合のいいような解釈でしかとらえていない
「条件付き」の批判だからなんじゃないかなぁって
最近よく感じるようになってきた。


「この事象をこうとらえた場合に、ここはいいんだけれども
 その一方でここが悪いためにそのよさを潰してしまっている」

みたいな批判であれば、きっと言われた側も納得がいくだろうが、
ただ何となくの総体的なものの見方でしかとらえていないざっくりとした批判、
或いは偏ったものの見方によるフィルター越しにしか見ていない批判などは、
その批判内容がちっとも具体的ではないので、
どんなによかれと思って言ったことだとしても
聞いていてイラッとしてくるだろうし、素直に聞き入れにくい気がする。

ちゃんと相手のことを考えての批判であるならば、
そこら辺についてしっかりと考えた上で批判をしなければ、
その目的を果たすことは難しいだろうと思うし、
もし相手のことを考えずにただ批判をしたいから批判をするのならば、
そんなことは全くの非生産的な何も生み出さない行動でしかないから
さっさとやめてしまった方が自らのためになると思う。
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by syohousen | 2010-06-26 16:31 | ものの見方・捉え方について

なんでって、

なんで日々鍛錬を積み重ね続けたり、
演劇について常に考え続けたりできるのかって?

まあ、色々と理由はあるだろうけれども、
自分にとって最も大きな理由は「演劇が好き」だからです。

それだけで、理由としては十分です。
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by syohousen | 2010-06-25 22:28 | 俳優訓練について

やり尽くした後だからこその「学び」なのではないか

人に教えを請うのならば、
まずは自らでやれることをやり尽くし、
自らで考え得ることを考え尽くし、
それでも分からないことについて問うくらいでなければ、
結局は自分にとってのプラスにはなりにくいし
相手に対しても失礼にあたるのではないか、と思ってしまう。

少なくとも、自分が何を学びたいのか、
それくらいは具体的に持った上で教えを請いにゆかねば実になる訳もなく、
そんな状態で「なんでもいいから教えて下さい」とばかりに
教えてもらう内容についてまでも相手任せでいるのは、
何か間違っているような気がする。


別に「今の自分の何がどう悪いのかすら分からないので、客観的な意見が欲しい」
というレベルでもいいから、何かしら具体的な目的意識を持って
学びに臨むことが人に教えを請う際には大事なことなんじゃないか。


たぶん、そっちの方が遥かに学びの効率もいいと思う。

何故なら、教える側と教えられる側の立場が対等になって、
学ぶことが両者にとっての共同作業となれるからだ。


「教えてくれ」も「教えてやる」も、いい学びの状態からは程遠いと思う。

「教えることが、学びとなり、学ぶことが、教えることになる」のが、
いい学びの状態なのではないのかな、と、今の自分は思っている。
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by syohousen | 2010-06-24 21:08 | 俳優訓練について

必要か、必要でないか、

例えば、必要とされたいと思っている人に
自分は必要とされていないんじゃないかと感じたとしたなら、
必要とされるだけの存在になるよう
努力すればいいだけのことなんじゃないかなって思う。

必要とされないことをただ嘆いても、
またはその人に対しての恨み言を言っても、
結局のところは何にも変わらない訳だし、
だからといって必要とされたいがために
媚を売ることも絶対に違う気がする。


そもそも、必要とされていないのは自分の力不足であるか
その人のその状況下でのニーズに自分が合わなかったかのどちらかな訳で、
また、必要ならばその人の役に立つし
必要でないならば何をしたって役には立たない訳だから、
別にそこについてああだこうだと悩むことなんかないんじゃないか。

一番不幸なのは「必要でないのに必要なふりをされてしまう」であって、
そう考えたなら、「必要か必要でないか」ということに
思い煩わされること自体が無駄な労力のように思う。

そんな余計なことを考えたりする暇があるなら、
今の自分に何ができるのかについて
とことん考えてみることの方が遥かに建設的だ。


必要であれば頼られるし、
必要でないなら頼られない。

それくらいシンプルに考えていい気がする。


まあ、納得がいかないという気持ちが芽生えてしまうのも、
人間である以上仕方のない部分ではあるんだろうが、
だからといってぐだぐだと気にしていい理由にはならないし、
その人にとってもいい迷惑でしかない。

それに、そんな発想ではたぶん、
今後も必要とされることなんかないんじゃないかなとも思う。
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by syohousen | 2010-06-23 15:29 | ものの見方・捉え方について

「稽古」と「練習」について思うこと

「稽古」を「練習」と表現することに異を唱える人は多いが、
演劇の世界において「稽古」という言葉が
ほとんどの場合に「公演稽古」のことしか指していないことに対し
疑問を持っている人って少ない気がする。

誤解を恐れず言うならば、
それこそ本番のための「練習」だと
思われても仕方がないんじゃないか。


単純な「お稽古事」としての「稽古」というのも
もっとあっていいと自分は思うんだが、どうだろうか。


「もっと稽古したいんだけど、なかなか公演が決まらなくてね、、、」
という話を聞く度に、
「なら自分でそういう場を作って稽古すればいいじゃん」
と思ってしまうのも、そのためだったりする。


なお、「稽古」の意味を調べてみると、、、

1 芸能・武術・技術などを習うこと。また、練習。
2 芝居などで、本番前の練習。下げいこ。リハーサル。
3 昔の書を読んで物の道理や故実を学ぶこと。学問。

また、「稽古」という言葉には
「古(いにしえ)を稽(かんが)える」
という意味合いが込められているとのこと。


辞書を調べてみるだけでも、
「稽古」という言葉にはこれだけの意味が含まれていることが分かる。

にも関わらず、「何か発表の機会がなければやらない」
という意味合いでしか「稽古」という言葉を捉えていないのは、
ずいぶんと了見の狭い話ではないかな、、、と感じてしまう。

やはり、「稽古」という言葉の意味を
今一度見つめ直してみることは大事なことなんじゃないかと思う。
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by syohousen | 2010-06-22 19:48 | 俳優訓練について

もう、12年も前のことになるのか、、、

今日は父方のじーちゃんの命日。

生前、あまり頻繁に話をする機会はなかったのだけれども、
それでも自分にとっては本当に大きな存在でした。


「真は真の信じるように進めばいい」

亡くなる一週間前、
何の前触れもなくふと口にしたこの言葉は、
今も自分にとっては全ての判断基準となってます。

自分が「これだ」と信じたものに対し異常なほどに頑固なのは、
このじーちゃんとの最期の約束があるからだし、
そして、今も演劇を続けていられるのも、間違いなくこの約束のお陰です。


そんなこともあって、
一昨日、墓前に立った際、
「ありがとう」と一言だけ口にして、
「また来るね」と心の中で伝え、お墓を後にしました。


まあ、願わくは、今度来る時には、
いい報告ができるようになっていたいもんです、、、
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by syohousen | 2010-06-21 17:02 | つれづれと