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2009年も終わりを迎えて

今年も、、、いや、00年代も、本日を以て終わりですね。


今年は、本当にしんどい1年でした。

直接的に何か困難な状況が我が身に訪れた、
という訳でもなかったのですが、
たぶん、だからこそなんでしょうね、
目に見えた苦しさというものがないからこそ、
余計に苦しかったのだと思います。

イチロー選手じゃないですが、
「痛覚を通した痛みとは全く違った質の痛み」を
味わっていたのかもしれません。

多少、目に見えて苦しいと思えるような状況の方が、
たぶん自分にとっては楽なのかもしれないなと。


とはいえ、今年1年何もせずに過ごしていた訳ではなくて、
むしろかなり色々と動いてはいたんですがねぇ、、、

人生、そうそううまくはいかないもんです。


反省としては、指導者の活動に集中するためと称し、
なんとなくで俳優から離れる期間を作ってしまったこと。

別にその考え方そのものは悪いことではないと思うのだが、
問題はそのやり方で、あの時の自分は具体的なビジョンもないまま
「俳優と指導者の活動がどっちつかずになってしまわないように」という
引き算の発想であのような選択をしてしまったのがまずかった。

離れた当初は、明確なビジョンを持っていたつもりだったんだが、
でも実際に動き出してみて、それが全然甘かったことに気付いた、、、


たぶん、何か大きな決断をする時というのは、
その判断が自分の中である程度の必然性を帯びていないと
その後の展開に大きく響いてくることになってしまうんだと思う。

ただ、このことを身を以て学べたのは、不幸中の幸いだった。

二度と同じようなミスは犯さないよう気をつけねば。


ただ、半年間俳優から離れていたこと自体は、
必ずしも悪いことばかりではなかったと思う。

自分の中での「当たり前」が大きく減少したし、
一度離れたことで俳優に対する自らの想いの強さも再確認できたし、
何よりも演劇のことが以前よりも更に好きになった。


以前も書いたことだが、
やはり人生において無駄なことなんていうのは
ひとつも存在しないんだと思う。

それを認識しているかしていないかで、その人のこれからは相当違ってくるはず。

結果オーライとは言え、そこに自分で気付けたことは、
しかも実体験を元にして気付くことができたのは、非常に大きな収穫だった。



発見は色々とあったものの、指導者としての自分は今年、
あまり前進できてはいなかったなというのが正直なところです。


まあ、今年は勉強会を開催するようになって、
朧気だった自分のやりたいことが明確になり出して、
そのメンバーも少しずつだが増えてきてはいるんだけれども、
まだ全然、自らの理想には届いていないし、
このままでは決して届きはしないと思っている。

定期診断も個人レッスンもほぼ開店休業状態だし。


ただ、このまま何の手を打たずに惰性だけで続けてゆく気は毛頭ないです。

既に考えてはいます。

が、その考え通りに事が運んだとしても
たぶんその効果が出てき始めるのは数年後とかになると思うので、
どちらにせよもうしばらくの間は我慢し続けてゆかねばならないかとは思います。

でも、それだけ我慢してでも
やっぱりこれはやりたいことなので、全然構いません。


まあ、これからどうなるのか、
そんなことは全く分かりませんが、
自分の信念を信じ、周り人達のことも信じ、
精一杯やり抜いてみようかと思います。


今年1年、どうもありがとうございました。

どうか皆様に素敵な1年が訪れることを心より祈っております。
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by syohousen | 2009-12-31 15:34 | ふりかえり | Comments(0)

いい循環をくれる人

今日は、自分が最も信頼を置いている演劇人である
『マームとジプシー』主宰の藤田君がさっき書いてたブログを、
こちらでリンク貼っておきますね。

マームとジプシーBLOG

こういう人だから、俺は彼のことが大好きなんですよ。
こういう人だから、俺も一緒にやってゆきたいんですよ。

で、一緒にやるからには負けたくないんだけれども、
どんどん変化してゆこうとしている彼と向き合ってゆくのは
とても大変なことだし、そしてそれが面白くもあり怖くもあるところだったり。

だから、いい循環が生まれてゆくんだと思います。


もうさすがに年内は稽古ないですが、
年明け後も、色々と感謝しつつ、たまにはムキになりつつ、
がんばってゆこうかなと思っておる次第でございます。
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by syohousen | 2009-12-30 15:50 | つれづれと | Comments(0)

素直さがくれた幸福感

今日は、父親の誕生日。


なんだろう、以前だったら照れ臭くて
あまり面と向かって「おめでとう」とか言えなかったのだけれども、
今日は自分でもびっくりするくらい素直に「おめでとう」と言えた。

そしたら、物凄く幸せな気分になれた。



そっか、

こういう風に
素直に自分の気持ちを伝えることができるのって、
自分までもが嬉しくなってくるんだ、、、

こんな些細な変化が、
こんなにも大きな幸福感を与えてくれるんですな。


まだまだ人生の中には沢山の嬉しいことが隠されているんだろうな。

だからきっと、幸せを諦めてしまうことで
それらを見落としてしまうのは、とても勿体無いことなんだと思う。


どうせ生きてんだからさ、幸せでいたいじゃんか。

それも自分だけじゃなく、周りも幸せだったら余計に嬉しいじゃんか。

だったら、そのための努力を惜しむ理由なんかないと思う。
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by syohousen | 2009-12-29 16:48 | つれづれと | Comments(0)

「分からない」ことの悲しさ

痛みや苦しみって、それを味わっている本人にしか
分からないものであるけれども、
その「どうやっても分からない」ということの辛さも、
また違った苦しさ悲しさを持っているんだなと思うようになってきた。

「分からない」ということに対して、
その人がどう向き合っているんだろうか、、、

そう考えてみた時、どんなに残念な感じの人がいたとして
その人が自分にとって物凄く不快なことを行っていたとしても、
もしかするとその人なりに背負っている痛みや苦しみや悲しみがあって、
それは決してその人の外側の部分だけを見ていても
汲み取ることができないんじゃないだろうか、と思えてきた。


分からないからといって、
鈍感だからといって、
苦しんでいないわけでは決してないんだろうなって。

鈍感な人には鈍感な人なりの痛みがあるんだと思う。


なんでそんなことを思うようになったかといえば、
今の俺自身が、「どこまでいっても分かることができない」ものに
直面しているからだ。


人の痛みは、本当の意味で理解してやることなんてできない。

そんなこと、とっくに分かってたはずなのにな、、、

んー、、、自惚れてた、ってことかな、、、



少しだけ、人の見方が変わった気がする。

ちょっと、自分でも驚いてる。


たぶん、傷付くということは、
人の心を少しだけ柔らかくしてくれるんだろうなって思った。
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by syohousen | 2009-12-28 14:24 | つれづれと | Comments(0)

泣けるって、すごいことなんだろな

ふと気付いた。

「その人のために泣ける」というような人がいるってことは、
きっと、ものすごくありがたいことなんだろうなって。

もしかすると人によってはそんな人に出会うことなんかできないまま
一生を終えてしまう人だっているのかもしれないんだし。

や、まあ、実際にはそれって“出会わない”でなく“気付かない”のかもだけど。


しかも、それが“思わず”泣いてしまったのだとしたら、
そんな風に感じさせてくれる人ってのはもう、
本当に貴重で得難い存在な訳ですよ。



だから、そう感じさせてくれる人にはちゃんとお返ししなきゃアカンと思う。
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by syohousen | 2009-12-27 10:13 | つれづれと | Comments(0)

文体、戻しました

本日の記事から、自ら設けていた文体の縛りを解きました。

今年4月に、「ほぼ毎日更新」というノルマを自らに課したのですが、
実はその時にもうひとつ設けていた縛りがありまして、
それが「普段の自分とかけ離れた印象を持った文体」だったのです。

敢えて縛りを設けながら毎日文章を更新してゆくことで、
何か見えてくるものがあるのではないかと思い、
実験的に行ってみた訳です。


ただ、最近そこに型のようなものが生まれてきて、
また、その型に安住している自分が見え隠れし始めたので、
また元に戻すつもりでした。

で、今日、その文体を戻した、という訳です。

本来は年明けから文体を元に戻そうかと思っていたのですが、
昨日、自分の今後に大きな影響を与えるような出来事があったため、
気持ち的にこのタイミングが一番いいなと思い、そうしました。


まあ、一応、報告までに。
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by syohousen | 2009-12-26 15:57 | つれづれと | Comments(0)

昨日のこと

俺個人の意思なんかと関係なく、
この世界の状況は、日々劇的に変化していて、
今の俺の目に見えてるものなんてのは、
きっとこの世の中の端も端のことな訳で、
本当にちっぽけなもんなんだとつくづく思い知らされた。




昨日、俺にとって心の底から大切だと思っている人から、
とてつもなくショッキングな事実を告げられた。

俺は、それを聞いて、己のあまりの無力さに絶望すら感じ、
帰宅後一人になってから、ずっと泣いてた。


もう、なんか、どうしようもなく、悔しい。

俺にはその時、何もしてやることができなかった。
それどころか、その時の俺は何も知らなかった。
そしてそれは、状況的に言えば、仕方のないことだった。

でも、そんなことは関係ない。

結果として、何もできなかったのが、悔しいんだ。
仕方がなかろうがなんだろうが、何もできなかったのが、悔しいんだ。




ずっと、そんなことばかり考えている。


しかしそれも、そろそろ終わらせようと思う。

悲しみや悔恨の意思は、
自分一人で抱え込み過ぎていても危険なものだとは思うけれども、
だからと言っていつまでもみっともなく垂れ流し続けていたところで、
結局のところその先で何かが生まれることなんかまずないのだから。


悔しいんなら、これから何をできるのか、を考えてゆこう。

この心の痛みは抱えたままで。


もう二度と、あんな思いは御免だから。
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by syohousen | 2009-12-26 15:56 | つれづれと | Comments(0)

「今の自分を認める」ということ

昨日、とても興味深い言葉に出会った。


それは、

「しあわせになる決心」

というもの。



すごい言葉だと思う。


今の自分を「幸せである」と強い意志を持って認めること。

そして、そう認めることによって
そこへと近付こうとする意思を生み出すこと。


こういう発想の切り口もあるのだなと、とても感銘を受けた。
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by syohousen | 2009-12-25 10:19 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

渇望が身体を変えるのか

次の公演に向けての稽古にて感じていることなのだが、
間違いなく一年前の自分とは芝居中に感じ取っていることの
細かさのレベルが違ってきている。

きっと、自らに課しているもののレベルが高まっているために、
これまでと同じような細かさでは満足しきれなくなって
そのように感じてしまうのだろうなと思う。


また、それに伴って、台詞の入りも明らかに早くなった。

おそらく、台本を放せるまでの期間は
以前の半分以下になったんじゃなかろうか。


もしかすると、早い段階で台詞が入らないことには
自分の目指す芝居に近付くことができないのだということを、
自分自身の身体そのものが理解し、
そこに適応しようとし始めているのかもしれない。


必要だから台詞が自然と入ってくる。
より深く掘り下げてゆきたいから、台詞は早く入れてしまいたい。

その当たり前の発想の循環が、
ようやく自然に行えるようになってきたようだ。



芝居に対する切実な想いが、
より高みを目指したいという渇望が、
強い覚悟を生み、
その強い覚悟が、
身体を変えてゆくということなのだろうか。


今の自分には、自分自身でも若干の戸惑いを覚えている。

しかし、これは創作を行ってゆく上で、
決して悪くはない変化なのだということだけは分かる。



ここで、指導者としての自分を省みた時、
如何にすればこのような心境に
相手を導くことができるのだろうか、、、

ここが見えてくれば、
指導者としての心持ちや相手へ与える影響力が
今とは相当違ってくるのではないかと思う。



ただ、今は目の前の創作へ集中してゆくことだけを考えておくようにしたい。

今の自分の眼差しの先には、
「今のこのいい状態の中から、今後に繋がる何かを掴んでやろう」
というような意思が紛れ込む余地は入っていないのだから。

そこを探り出すのは、終わってからやればいいことだ。
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by syohousen | 2009-12-24 20:45 | つれづれと | Comments(0)

「そうだね」で入るのか、「でも」で入るのか

人と話す際に、相手の言葉に対して
「そうだね」や「なるほど」などの肯定の言葉から入る人と、
「でもさ、」や「いや、」などの否定の言葉から入る人とでは、
その後の話の膨らみ方に大きく差がついてしまう気がする。

そして何よりも、話していて楽しいかどうかが
全然違ってくるような気がする。


話しやすい人とそうでない人の差は、
案外、こんな些細なことの積み重ねによって
生まれてゆくのだと思う。


まあ、それもあまり度が過ぎると
適当にあしらってしまっているようにも見えるので、
無理をしたり嘘をついたりしてまで合わせる必要はないと思うが、、、


要は、如何にして自分だけの価値観にとらわれず
多角的なものの見方ができるようになれるかなのではないか。

相手の価値観を尊重できる心があれば、
会話の中で別に無理せずとも肯定から入れるようになれるはずで、
嫌々肯定から入ってみたり、ついつい否定から入ったり、
などということは、自然と減ってゆくではないのではないかと思う。
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by syohousen | 2009-12-23 15:20 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)