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「認められたい」という厄介な感情

「人に認められたい」

この欲求ほど、厄介なものはないなと最近強く感じる。


人に認められたいと思っている時の自分自身の精神状態というのは、
大抵の場合は他者目線、他者基準の発想になってしまっていることが多い。

そうなってくると、自らの心の声に対してのアンテナが鈍ってしまうため、
知らず知らずのうちに本当に自分のやりたいことから逸れていってしまう。


まあ、「人に認められたい」という気持ちは人情として仕方のない部分もあるし、
それが自らを高めるためのモチベーションに繋がることもあるのだから
必ずしも悪いことばかりではないとは思う。

が、そればかりになってしまうのは非常に危険でもある。


ここ最近の自分は、若干この厄介な感情に流され気味な気がする。

何をするにも見返りを求める気持ちが芽生えつつあるのだ。

自分の中に「なぜ」「~のに」という発想が増えてきているのがその証拠である。


自分自身の内側から湧き上がってきた行動であれば、
このような未練がましい発想など生まれてはこないはず。

今一度、この厄介な感情をしっかりとコントロールできる心の強さを持ち、
逆にうまく利用できるくらいのしたたかさを備えられるようにしたい。
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by syohousen | 2009-10-31 08:08 | つれづれと

未来の自分に胸を張れるように

客演先の公演初日まであと1週間を切った。

どうあがいたとしても、残りの時間は増えることはない。

だからこそ、今やれることを精一杯やってゆくしかないのだと思う。


終演後の自分自身に、
堂々と胸を張れるような“今”という時間の過ごし方を送ってゆきたい。
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by syohousen | 2009-10-30 11:39 | つれづれと

内外二つの様相で以て

内面の気を充実させつつ、しかし外に発する気は柔らかい。

自分は最近、そんな状態で芝居に臨めるようになりたいなと思っている。

内外で二つの様相を以て舞台上に立てれば、
観客から観ていてその興味はなかなか尽きることはない気がするのだ。


もちろん、内に漲らせた気をそのまま外へ発することも
できるに越したことはないだろうが、それだけしかできないようであれば
外から見ていても意外性がないため、
そのエネルギーに余程の特殊性でもない限りは
観客には案外すぐに飽きられてしまうのではないかと思う。

ましてや内に気が込められていないのは論外である。


だからこそ、内に込められたエネルギーは常に漲らせていられるようにし、
外に発する際に硬軟織り交ぜた発し方を可能にする
柔軟性を獲得できるよう今後は努力してゆこうかと思っている。


今の客演先での公演稽古に参加している中で、
より切実にそんなことを感じるようになった。

まだまだ努力すべき余地は沢山残されている。

この奥深さがあるからこそ、芝居というのはやめられないんだろうなと思う。
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by syohousen | 2009-10-29 07:27 | つれづれと

常に一回限りなのだ

自分は、知人からの舞台やライブなどの告知などをもらい、
しかし残念ながら行くことができなかった時、
極力使わないようにしている言葉がある。

それは「次は行くから」や「次こそは」という言葉である。


舞台やライブなどは、たとえ同じ公演であっても、
全く同じものに仕上がるということは有り得ない一回性のものである。

それはつまり、その人にとって決して代えの利かないものであるのだから、
その「次の機会」に自分が行けたからといって
その公演に行けなかったという事実を肩代わりできるようなものではない。

それに、もしかしたらその人がその公演で
舞台に立つのが最後になってしまうことだって十分にあり得る話でもある。

「一寸先は闇」「人間万事塞翁が馬」などの言葉にあるように、
人間、いついかなる時にどうなってしまうのかは全く予測のつかないものである。


自分も、今関わっている公演の後のことは何の保証もできない。

今ここで「今後も役者を続けてゆきます」と高らかに宣言したところで、
それを100%確約できると言い切ることはできない。

ましてや今、自分の中では目の前の公演のことに専心しており、
今後のことは全くの白紙であるのだから、ますます分からない。


上記のようなことは以前から考えていたのだが、
先のように一時期役者から距離を取ってみたことによって
その考えはより強くなった気がする。

というのも、役者から離れることを周りに告げた際、
「なんで急に、、、」「何かあった?」などと聞かれることが多かったためである。

しかし、周りの人にとっては唐突でも、
自分にとっては長い時間をかけて悩み抜いた結果であった。


それは他の人にも同様のことが言える。

だからこそ、都合がつかずに行けなかった時は、
その「行けなかった」という事実を
一切誤魔化さずに引き受けなければならないし、
それが礼儀なのではないかと思うのだ。

そして、そう考えた時、「次は」などという言葉を
そうそう安易には吐けないよなと、自分は思う。


一期一会の精神を忘れてしまえば、
知らず知らずのうちに礼を失してしまうことがあるかもしれないのだから。
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by syohousen | 2009-10-28 10:32 | つれづれと

今日の空のように、

昨日の荒れた天気が嘘のように、
今朝は気持ちのよい青空が広がっている。

なんだか、今のようにやることが多く
色々と考えなければいけない時だからこそ、
この青空のように頭の中を空っぽにしてみる時間を
僅かでもいいから取ってみることも大事な気がする。
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by syohousen | 2009-10-27 08:27 | つれづれと

可能性は、そのままでは可能性でしかない

自分で自分に対し、幻想を抱かないこと。

それがこんなにも生きてゆく上で大切なのかと最近強く実感している。


それはある種、自分に対する“諦め”でもあるのかもしれないのだが、
「事実を引き受ける」という意味合いでの「積極的諦め」というものは
やはり必要不可欠なものなのかもしれない。


事実を引き受けることで、そこから次のステップへと進める。

それは見方を変えてみれば、
自らの可能性を絞り込む作業であるとも言える。

何故なら、“可能性”という視点からだけで自分を捉えていれば、
何者にでもなれる可能性を持ち続けることができるからである。

が、「自分にはあんなこともできるし、こんなことだってできる」という
可能性ばかりいつまでも尊重していて、決断を先延ばしにしていれば
いつまで経っても今の地点から先へと歩みだすことはできないと思う。

可能性は、そのままではどこまでいっても可能性でしかなく、
実際に動き出さない限りは決して事実には変わることはないのだ。

そのように決して事実に変わり得ない可能性であるのならば、
たとえどのような素晴らしい可能性であっても
結局のところそれは「自らに対する“幻想”」でしかないのではないか。


誰にだって自分は尊い存在であるし、
周りの人間にもそう扱って欲しく思ってしまうのが人情というもの。

しかし、自分(或いは肉親)という唯一無二の存在に対してならばいざ知らず、
周りの人間からしてみれば、「これから何者にでもなれる」という可能性だけで
尊重しろと言われても、それはその人の手前勝手な我儘にしかならない。


ならば、そんな幻想は早くに手放し実際に動き出すことで、
勇気を持って自らの可能性を絞り込んでゆくべきなのではないか。

人生という長い道を歩み、自らを成長させてゆくためには、
「選んだ道」と「選ばれなかった道」の両方を全て
ことごとく引き受けた上で歩んでゆく覚悟が必要なのだと思う。
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by syohousen | 2009-10-26 11:13 | つれづれと

野村監督、退任

イーグルスの野村監督が、
昨日のプロ野球CS第4戦を以て退任となった。

まあ、もしかしたらまだ今後も他のチームで
監督業を継続するかもしれないが、
チーム創立5年目にしてリーグ2位の成績を
修めることができたのは本当にお見事の一言。


まあ、一先ず野村監督については沢山書きたいことがあるので
細かいことは後日改めて書こうかと思うのだが、ひとつだけ。

自分の中で、野村監督の言葉で今の自分にとって大きな支えとなっているのが

「二流の超一流になれ」

という、スワローズの宮本選手へ向けて送った言葉である。

自身も現役時代、成績的には王選手に次ぐ偉大な記録を残しながらも
常にONの陰に隠れていた。

長嶋氏を「向日葵」に、それに対して自らを「月見草」に例え、
それでも自分の信じる道を貫き通している野村監督のその生き方は、
自分にとっては究極のお手本として心の底から尊敬している一人である。


力のないものでも、自分の持っているものを最大限に生かし、
如何にして生き残ってゆくかを自らの生き様で体現し続けてきた野村監督。

ひとまずは、心よりお疲れ様でしたと言いたい。
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by syohousen | 2009-10-25 09:13 | つれづれと

「子供騙し」というエゴ

例えば、子供相手に何かを見せたり教えたりしようとした際に、
「子供には分からないから」と自分達大人の考える
『子供のレベル』にまで質を落とすことというのは、
実は子供のことを馬鹿にした大変愚かなことなのではないかなと思う。

そんな大人の自己満足的な配慮が、
世の中に蔓延る「子供騙し」を生み出しているのではないか。


別に自分は、子供が相手であってもレベルを落とす必要はないと思っている。


むしろ本物を見分ける力は大人以上のものがあるのではないか。

大人はどうしても、知識や肩書きなどに惑わされてしまうことがあるが、
そういう飾りの部分のありがたみをあまり分からない子供には、
判断基準が本質の部分しかないからである。

や、まあ、とはいっても
それが全ての子供に当てはまるとはさすがに自分も思わないし、
別に「子供が優れていて大人は愚かだ」などと言いたい訳でもない。

当然、子供にも個人差はあるとは思うし、
飾りの部分が好みの子供だっているかもしれない。


しかし、だからといってこれからものを知ってゆく存在である子供に、
大人の勝手な配慮で本物に触れる機会から遠ざけてしまうのは如何なものか。

そんな大人の歪んだ意向を折り混ぜ質を落としたものに触れさせて、
その事象そのものに対する偏見や興味の喪失を
生んでしまったりしたならばその責任は誰が取るのか。


もちろん、子供にとき合うにはそれなりの配慮は必要だと思う。

しかしその配慮は、如何によりよい状況で子供に本物へと触れてもらうか、
という点についての配慮でいいのではないか。


はっきり言って「子供騙し」で騙せるのは
幼さの抜け切れていない「大きな子供」とでもいうような一部の大人だけである。


子供へと伝えるものの形を歪めて伝えてしまうこと。

それは「配慮」ではなく大人の「エゴ」だと思う。
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by syohousen | 2009-10-24 05:50 | つれづれと

大事にしていること ⑦

夜寝る前に、どんなことでもいいから
「今日は昨日より自分のこんな部分が前進できたな」という
実感を持てるような生き方で毎日過ごしてゆきたい。
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by syohousen | 2009-10-23 09:23 | つれづれと

「周りの小さな変化を感じられる心」という好循環

ここ最近の穏やかな気候に
なんとなく気持ちも癒されている。

それは実際に気候が穏やかだからというのも大きいのだろうが、
もしかすると自分の心の中が落ち着いてきているからなのかもしれない。


少しずつだが、自分の中でいい循環が生まれてきつつある。

だからこそ、その循環を大事にしつつ、
今度はそれを周りにも還元してゆけるようにしてゆければなと思う。
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by syohousen | 2009-10-22 08:22 | つれづれと