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恥をかくこと

年齢を重ねてゆくと、幼い頃に比べ、
恥をかかなくても済むような生き方を選べるようになってきてしまう。

もちろん、それでも恥をかいてしまう状況に出会うことはあるだろうが、
事前に恥をかくことのないよう手を打つことができたり、
恥をかきそうな状況を避けたりすることができてしまうので、
もし「恥をかかない」ということに専念して生きてゆくのならば
恥をかく危険性を限りなくゼロに近づけてゆくことも不可能なことではないと思う。


がしかし、自分はこの「恥をかきたくない」という思いに自覚的になってゆきたい。

でないと、知らず知らずのうちに安全な道ばかりを選んでしまい、
自らの可能性を無自覚に狭めてしまうことだってあり得るかもしれない。


失敗をすること、恥をかくことというのは、誰でも嫌なものである。

が、失敗をしたり、恥をかいたりすることで、
己が何者であるかを再確認することもできるのだ。

たまには安全なところを出て、丸腰で世間と向き合ってみることも
自らの成長のためには大切なことなのだと思う。
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by syohousen | 2009-09-30 10:46 | つれづれと | Comments(0)

いつもと違う視点から

昨日、いつも歩いている道を通らずに違った道から目的地に向かってみたのだが、
普段自分が知っている景色と全く違った印象を受けたので少し楽しく感じた。

また、これまでのアングルからでは見えなかったために
気付くことのなかった道を見付けたりできたのもなんだか面白かった。


日頃やだなと感じていることに対しても、
こんな風に立ち位置を変えて見られるようになりたいものである。
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by syohousen | 2009-09-29 07:27 | つれづれと | Comments(0)

実際に動いてみて

やはり動いてみると、停滞していた時と比べて
かなり今の自分がどうすべきかが
具体的に考えられるようになってきたような気がする。

まあ、とはいっても前途多難であることには変わりはないのだが(苦笑)


動いてみたことで「これ失敗したなぁ、、、」とか
「もう少しよく考えればよかった」とか、そういったことを感じることもいくつかある。

が、それでも自分は動いてみてよかったと強く思っている。

実際に行動し、経験してみたことによって
これまで頭の中だけで想像していたことが自分の身体に実感として
落とし込まれてきたため、例え失敗だと感じたことが増えたとしても
それを次に繋げられるような血の通った発想を持てるようになってきたからだ。


正直言って、未だに状況は一進一退の状態を抜け出てはおらず、
しんどいことには変わりはない。

むしろ思い悩む時間は前より増えた気がする。

しかし、このしんどさを味あわずして、前進はできないのだと思う。
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by syohousen | 2009-09-28 09:02 | つれづれと | Comments(0)

身体からのSOSサイン

このところ、自分の声の響きがかなり落ちているように感じる。

そのせいで、相手へは暗い印象を与えてしまっているようであるし、
また、周りが騒がしい場所などでは非常に聞き取りにくくもある。


実は3年前にもこのような状況に陥ったことはあったのだが、
その時はある程度の時間が経過したら自然と元に戻っていたのを憶えている。

が、今回は何かしらの手を打たねば修正は無理な気がしてならない。

というのも、以前は肉体的な疲労の蓄積が原因の症状であったのだが、
今回はどうも精神的なものが原因となっている症状のようだからである。


こういう時の対処法は色々と考えられるのだが、
おそらく自分の場合は身体へとアプローチを仕掛けていった方が有効な気がする。

「発想の切り替え」などでも全く効果がないとは言わないのだが、
今の自分にはそれよりもとにかく(物理的に)動くことの方が重要だと思う。


今の自分が何故何となく悶々としているのかといえば、
思考のスピードに身体が、そして現実がついていけてないのが大きい。

現実がついていけてないのはまあ、どうにもならないことであるし、
そこに対しては辛抱強く付き合ってゆくしかないのだと思うが、
身体の方は自らで積極的に働き掛けてゆくことが可能である。


「何となく気分が盛り上がらない」などということはよくあることだし、
そういう漠然とした不安を抱えている時というのは
自分がどうしていいか分からなくなってしまいがちである。

そういう時こそ、少し引いた視点から今の状況を見、整理し、
その中でやれることや修正可能なところを見出し、
どんなに小さなことでもいいから手を付けてみる。

とにかく現実を見据えることから始めてみようかと思う。


このところの声の落ち込み具合、
これは身体からのSOSのサインなのかもしれない。

だからこそ、自分自身でしっかりと対処してあげなければ。
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by syohousen | 2009-09-27 11:50 | つれづれと | Comments(0)

くしゃみって、、、

人がくしゃみをした時に口から出る飛沫のスピードは、
時速300kmをゆうに越えるのだということを先日知った。

人間の身体から起こった現象で、
そのように驚くべきスピードが生み出されていたとは、、、

そりゃあ口元を抑えないと思いもしないようなところにまで
飛沫が飛び散っても不思議じゃないよなと思う。


当たり前の中に、驚きは潜んでいるものなのだなと、つくづく感じさせられた。
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by syohousen | 2009-09-26 10:09 | つれづれと | Comments(0)

立場を変えてみた時に気付いたこと

初めて取り組んだものを間違ってしまった時、
教える立場の人間が「それ違うよ」だけで言葉を止めてしまうと
その人は次にどうしていいのかが分からなくなってしまう。

それも当然のことで、ただ「違う」という事実だけを通達されても、
それがどう違うのか、違っていたとしてじゃあどの方向へ向かえばいいのかが
分からなければ、その人が停滞してしまう原因にしかならなくなってしまうからだ。

まあ、例えば以前も注意したものを再び間違えたとか、
これまでに教えられたものを応用すれば分かるものなどであれば
そのやり方はありだと思う。

が、まだ何も伝えてないものであるにも関わらず「違う」という事実だけが
伝えられてしまっては、「あ、違うんだ、、、」という自責の念だけが
残ってしまい、更には次の行動にも移れないために
人によっては「失敗した上にそのフォローもできないのか、、、」と勝手に
どんどんと自信を失ってしまう危険がある(まあ、これは自分の場合なのだが)。


そこに意図が含まれていないのならば、教える立場の人間というのは
ただ「違う」で済ませるのではなくて「それはこうだよ」というように、
「そこでやらないで」というのではなくて「こっちでやって」というように、
指示が常に“具体的”でなければならないと思う。

でないと物事が建設的に進んでゆけない。


最近、人からものを教わった時に、そんなことを感じた。

やはり、どちらかの立場だけに立ち続けているよりかは、
両方の立場を行ったり来たりできるようにしていた方が発見は多いようだ。
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by syohousen | 2009-09-25 10:25 | つれづれと | Comments(0)

攻めの目標設定、守りの目標設定

イチロー選手は、打率よりもヒットの数の方にこだわっているという。

その理由は、打率は打てれば上がるけれども
打てなければ下がってしまうため、いよいよとなった時に
気持ちが守りに入り、時には「打席に立ちたくないな」という
気持ちが芽生えてしまう危険があるためである。

が、ヒット数は一度増やしてしまえば決して減ることはなく、
また、打席に立たない限りは増やすことはできないので、
「少しでも多く打席に立ちたい」という攻めの気持ちが自然と生まれてくる。


同じことを行なっていたとしても、何を重んじるかによって
気持ちは攻め気にもなるし守りに入りもする。

目的意識を持つことは大事だが、
それが自分の心構えにどのような影響をもたらすかにまで
計算に入れて目標設定をするイチロー選手、、、やはり偉大である。
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by syohousen | 2009-09-24 07:42 | つれづれと | Comments(0)

“今”をどう見るか

“今”を到達点と見るか、通過点と見るかで、次の行動が大きく変化する。

過去の積み重ねの結果が“今”であるということを忘れてはならないが、
“今”をゴールとして結論付けてしまうと、そこで歩みは止まってしまう。

自分は、“今”を通過点として、
また同時に、出発点として捉えて今後も生きていきたく思っている。
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by syohousen | 2009-09-23 10:13 | つれづれと | Comments(0)

選択権は残して欲しい

なんだか、このところの報道というのは
被害者目線に偏り過ぎなんじゃないかとよく感じてしまうことがある。

何を行なってみても、そのことの悪い面ばかりあげつらって
足を引っ張ってばかりなので、結局観ている側の意識下に残るのは
政治や社会への不満の感情ばかりになってしまうように感じてしまうのだ。


全ての人間が万遍なく幸せになれるに越したことはないのだろうが、
この世の中ではなかなかそういった都合のよい話にお目にかかれることは
稀であり、やはりどうしてもどこかしらの部分に皺寄せが生じてしまうのは
ある程度は仕方のないことである。

だからこそマスコミに求めたいことは、
「この一件によって誰がどう幸せになり、誰がどう不幸になるのか」
というように、視聴者に色々な受け取り方の選択肢を残した上で報じること。

別にマスコミは完全中立であらねばならないなどとは
さすがに自分も思ってはいないが、どちらかの視点だけにに立った情報しか
流さないというのだけはあってはならないと思う。

そこは報道関係者の最低限の責務のはず。


しかし、どうも近頃の報道を見ていると、
「何故もう一方の意見については触れないのだろうか?」
と感じてしまうことが多い気がするのだ。

大抵の場合、一方についての情報が過多であり、
もう一方の情報が稀薄であることばかりな印象を受けてしまう。


これまでも何度か書いたが、
この世の中の物事というのは「善」と「悪」で綺麗に分けられるものではない。

一見理不尽なことを行なっているように見える人であっても、
その行動を行なうにはその人なりの
動機やら信念やらがあった上で行なっているはずである。

もしそこの部分だけでもしっかりと提示してくれたならば、
たとえ報道する側の人間がどちらかの立場を支持するような姿勢を見せたとしても
視聴者は自分の意思でその一件に対する意見を選択できる。

マスコミは、その選択権を決して奪ってはならないと思う。
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by syohousen | 2009-09-22 08:05 | つれづれと | Comments(0)

「質問」について

相手の返答が予測し易い質問や、
答えようのないことだと分かった上で行なう質問というのは、とてもずるいと思う。

例えば、両極端な極論2つを突き付けて「どっちなんだ!」と問いただす。
例えば、原因も責任の所在も明らかであるはずの相手の失敗について問いただす。
例えば、実際にやってみないと分からないことについて詳細な説明を求める。
例えば、何かに挑戦しようとしている人に「うまくいきそうですか?」と聞く。

などなど、、、

相手の答えの予測がつきやすいということは、
その答えに対する揚げ足を取るための用意をし易いということでもある訳で、
大抵の場合、どう答えたとしても突っ込むことができてしまう。

かといって、その質問に答えられなければ「はっきりしない奴だ」とか
「そんな曖昧な答えで許されると思っているのか!」と責め立てられてしまう。


しかも、それを意識的にやっているのならまだしも、大抵の場合、
無意識のうちにそういう質問を行ってしまっていることが多く、非常に厄介である。

特に正義感の強い人がその傾向が強い気がする。

気持ちばかりが先行した状態の雰囲気だけで質問をしていて
結局のところ当人も何を聞きたかったのかよく分かっていない、、、
そんな光景をよく見かけるのだ。


思うに、そういう質問をする時というのは、
それが意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、
「相手の意思を知りたい」のではなくて「こういうことを言わせたい」という
意思の元に発せられているのではないだろうか。

そのため、自らの意図に合わない言葉が出てくると怒りを感じ、
相手を責め立て始めるのだ。

そういうところに自分は「ずるさ」を感じてしまうのである。


が、そもそも質問というのは
「自分の知らないこと・疑問について問いただす」ということである。

決して「自分の言わせたいことを相手に言わせる」ことではない。


もし、知らないことや疑問についてを本気で聞こうとしているのであれば、
まずは自分が何を知りたいのかを具体的にするはずである。

そして、何を知りたいのかが具体的になれば
自然とその質問の内容も具体的になってるはず。

自分は、そうなってみて初めてその質問が意味のあるものとなるのだと思うし、
それが質問を行なう者の最低限の礼儀なのではないかなとも思う。


もう少し、謙虚になってみるべきなんじゃないかな、、、と思ってしまう。
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by syohousen | 2009-09-21 10:34 | つれづれと | Comments(0)