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「自力での解決のお手伝い」

自分は、人から相談事を持ち掛けられた時には
決して「自分が解決してやろう」という発想を持たないように気を付けている。


その人の悩みというものは、(それが社会的立場や技術・知識不足、経済的要因などに
よるもので当人だけでは現実的にどうしても解決が難しい場合を除けば)
その人の力によってしか解決することができないためである。

だから、自分は人から相談事を持ち掛けられた場合には、
「自分が考え得る限りの選択肢を提示すること」と
「話を聞くことによってその人の精神的不安を軽減させること」の2つで
「その人が自らの力で問題解決してゆくためのお手伝い」をすることしか
考えてはおらず、決してそれ以上の干渉はしないようにしている。

また、それに加えて、
「もしうまくいかなくても自分はそれであなたへの評価を変えたりはしないよ」
という姿勢だけは崩さないようにも心掛けている。


もちろん、自分の中では「こうした方がいいんだけどな、、、」という意見は
少なからず存在はしているが、それはあくまでも自らの意見・希望でしかないのだから、
それを押し付けることは何人たりともできないことである。

もし、それでも押し付けなければならないような状況、
或いはどうしても押し付けたいと思える相手に出会ってしまった場合などには、
その押し付けた意見に対し最後まで責任を持てるだけの覚悟を持った上でなければ
決して押し付けるようなことはしてはならないと思う。

「自分の考えには従ってほしいけれども、その責任は取らない」などという発想は、
あまりにも相手に対して失礼だし無責任である。


しかし、やはりは自力で解決に向かってゆける方が、
当人にとっての本質的な問題解決に繋がる可能性は高いのだから、
自分としては、極力「お手伝い」の域を出ないような関わり方でいたい。

そしてそれは、よほど相手を信頼できていなければできない、
実は非常にしんどくて難しいことであったりもする。

だからこそ、相談を持ち掛けられた際には強い意志を持って、
相手からの気持ちに対しては誠実に応じてゆかねばならないのだと思う。
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by syohousen | 2009-07-31 09:13 | つれづれと | Comments(0)

ここ最近の「うんざり」について

近頃は総選挙も控えているせいか
テレビでの政治家同士の討論の企画が増えているようであるが、
何かこう、見ていて「うんざり」してきてしまうことが多い、、、

まず、相手の話を聞かない人のあまりの多さに対してうんざりし、
その次に、相手からの質問に対しても真っ向から答えないことにうんざり、
そして、皆が皆で同時に発言して何を喋ってるか全く分からないのにうんざりで、
最終的に誰も考えが変化していないということにうんざりしてしまうのだ、、、


まあ、そもそもテレビの企画なので
論を闘わせて事態を好転させようなどという意識は皆無なのだろうけれども、
だとしたら見世物にすらなっていないような見苦しい言い争いを見せられる
意味というのは何なのだろうか、、、

おそらくは望む人がいるからこのような企画が立てられるのであろうが、
もしそうであるならば、自分はその企画のターゲットの対象外なのだろうなと思う。


これはあくまでも自分の個人的な意見なので、
別に「こうあらねばならない」というような
ものの考え方の押し付けをしようとまでは思わないが、
こうも建設的でないものが日々垂れ流されている
現状は何だか悲しい気分になってきてしまう、、、


とはいえ、こんなことをただ嘆いていても仕方がないので、
今の自分ができることを地道に行なってゆくことに専心していこうかと。
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by syohousen | 2009-07-30 09:28 | つれづれと | Comments(0)

“技術”や“才能”について

不思議なのだが、どうも“才能”や“技術”という言葉を
悪いイメージで捉えている人が意外と多い気がする。

「才能がある」だの「技術がある」だの言われると嫌がる人もいる。

しかし、果たしてこれらはそんなに悪いことなのだろうか?


思うに、これらはより高みを目指し、
より真理へと近付くためには必要不可欠なものなのではないだろうか、、、

例えば舞台においてであれば、よく通って聞き取り易い声や
立ち居振る舞いの綺麗さは観客にとって非常に観易く親切である訳だし、
また、発声や身体の扱い方を理解していればそれだけ自分の演技に集中できる訳で、
より作品のクオリティを高めることに意識を割けるはずである。


では、何故にイメージが悪いのか、、、

もしかすると、才能や技術を自らの向上のために利用するのではなくて、
ただ楽をするためにだけ用いて安売りしている人が
あまりに多いからなのではないか、という気がする。


才能の垂れ流しは、たしかにみっともない。

しかし、それは才能を持て余した結果の姿であって、
才能というものの持つ本来の姿とは違うはずである。

イチロー選手のように、より高みへと登るために己の能力を注ぎ尽くすことで
あれだけの奇跡のようなパフォーマンスを魅せたりすることもできるのだから、
技術にせよ才能にせよ、結局は使い方次第なのだと思う。
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by syohousen | 2009-07-29 10:30 | つれづれと | Comments(0)

「今、ここ」に生きていられること

昨日、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を友人のKちゃんと観に行ってきた。


この作品、自分にとっては人生を変えられたと言っても過言ではないくらいに
影響を受けた作品であったので、あの時の興奮をまた味わえるということだけで
幸せであるなということをしみじみと実感させてもらえた118分であった。

特に、世代的にも主人公のシンジ君とは全くの同世代の時期に
この作品と出会えたことにより、この新劇場版が公開されるまでの
10数年のブランクすらも楽しみの調味料となっていることに幸運を感じてしまう。

当時は当時の感性で共感(というよりも限りなく没入に近い感じだったが)していた作品と
こうして10年以上の歳月を経て、今の感性で再び出会うことができたというのは、
まるでかつて毎日遊び合っていた親友と、お互いに成長し合った状態で
久しぶりに再会するのに近い感覚のように思う。


今のこの時代、この場所で生きていることに心から「よかった!」と
感じることのできるものと出会えること、
もしかすると、それこそが幸せなことなのかもしれない。

まあ、「嫌な時代に生まれたな」とか「なんで日本人なんかに生まれたんだろう」とか、
「今、ここ」に対してネガティブに感じることの方が多いのがこの世界なのかもしれないが、
自分は「今、ここ」に生まれることができて本当によかったと思う。

エヴァだってスラムダンクだってイチロ-だってジョーダンだって演劇だって落語だって、
そして自分の周りにいる大好きな人達だって、
もし「今、ここ」に生きていなかったら出会えなかったかもしれないんだから。
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by syohousen | 2009-07-28 11:13 | つれづれと | Comments(0)

7/22(水) 勉強会レポ 『妄想力トレーニング パート2』

◆◇◆声と身体の処方箋・定期勉強会◆◇◆
『妄想力トレーニング パート2』

【進行】
■うそエピソード(物)
■フィードバック

■情景描写で妄想
■フィードバック

■うそエピソード(人)
■フィードバック

【レポート】
≪うそエピソード(物)≫
●内容
何気無く手にとってもらった道具について、インタビュー形式で次々と質問してゆくので、その人はその場で即興で「嘘だけどもっともらしい」エピソードを説明してもらう。という内容。

●気付いた点
・物の説明ばかりに終始してしまうよりも、その物と自分との関係性や距離感などを具体化させていった方が思い入れは深まり、触れ方の変化は明確になってくる

・即興で行なっている以上、思い付きで進行してゆくこと自体は問題ないのだが、一つひとつの嘘をそれぞれ言いっ放しにしてしまって発展させずにいると、話がとっ散らかって訳が分からなくなってしまい、自分と物との関わり方に話が繋がりにくい

●行なってみて
前回も行なったエクササイズ。
前回があまりにもうまくいき過ぎていたような気がしていたので個人的に前回とは違った角度から長所短所を検証してみたかったのと、参加者の思考のウォーミングアップの意味合いを兼ねて行なってみた。

その判断は間違っていなかったようで、今回行なってみたことでこのエクササイズにおけるいくつかの注意点に気付くことができた。

その中でも最も重要になってくるなと感じたのは、「自分との具体的な関係性についての嘘」である。
これがないと、どうしても自分のついた嘘が「実感」にまで結びついてこないようなのである。
そして実感がないためなのか、話を進めてゆけばゆくほどその場を取り繕うためだけのものになってしまいがちな印象を受けた。

考えてみれば、これは演劇における俳優と言葉との関係に近いような気がする。

言葉の意味だけにとらわれた状態で台詞を発しては、いくら感情を込めようとしてもなかなか実感が湧いてこないために、どうしても自らの身体に馴染んだ自分の言葉として扱うことができなかったりすることが多い。
本来、人は言葉に対してそれぞれで独自のコンテクストを持っている訳で、そこを無視して台詞を発しては単なる意味の伝達手段としてしか言葉が存在しないことになってしまい、誰が発しても構わないものとなってしまう。
誰が発しても変わらないのであっては、そこに俳優のアイデンティティは存在しない。

物に対しても、これと同様のことが言えるのではないかと思う。

小道具や装置などの舞台空間を構成する様々な要素とその俳優との間に何かしら具体的なエピソードなどが存在するからこそ、その物が舞台上に存在することの必然性が生まれてくるのだと思う。
つまりそれは逆に言えば、いくらその物の使い方に精通しようが、いくらその物についての知識を深めようが、その俳優との関係性が抜け落ちてしまっていてはその必然性は生まれにくいということなのだ。

客入れ時から舞台上に置いてあった学習机が、開演後、役との関係性を目の当たりにすることによって観客の意識が変わり、終演時にはその机に対する見え方が変わっていることだってある。
これは、机そのものが変わったのではなくて、俳優との間の関係が伝わってきたために観客の見方が変わり、その机に対しての印象が変わったということである。

例えば、ある俳優が「小学生に上がる時に買ってもらった祖母からの最後のプレゼント」というエピソードを盛り込むだけで、その俳優の中で机に対する意識が変わり、触れ方や扱い方は変化してくる。
但しこの際大事なのはそのエピソードに実感を持てるかどうかで、ただ闇雲にエピソードを盛り込めばよいという訳ではないということだけは留意しておかねばならない。
どんなに面白くても、実感を置き去りにした単なる思い付きに過ぎないような奇抜なエピソードばかりであっては、結局はその俳優の身体に反映されず、結局は情報でしかない訳だ。

本当に大切なのは、如何に自らの実感が伴っていて、作品や役とも整合性の取れた、独自性も備えたエピソードを盛り込めるか、ということである。

その発想力を鍛えるための訓練として、シンプル且つ自由度も高いこのエクササイズは非常に有効な手段であるなと思う。
もっともっと深めてゆきたい。


≪情景描写で妄想≫
●内容
小説などに描かれた情景描写の一つひとつの要素について、議論し合いながら具体的に妄想してゆく。その際、議論前に一度フラットな状態で読んでみて、議論した後との感覚や声質の違いを比べてみる。
※今回は芥川龍之介『蜘蛛の糸』の冒頭の文章をテキストとして使用

●気付いた点
・「これ見てみたい」という発想で臨めると考え易い

・「妄想」と「読み」とで行き来することで、「自らのイメージ」と「情景描写」「言葉」についての発見を増やしやすくする

・始める前に「このエクササイズは統一見解のようなものを出すことが目的ではありません」というアナウンスを入れた方がよいかもしれない

●行なってみて
ここ最近、定期診断などで少しずつ導入していっているものなのであるが、これを集団で行なってみたら更に効果的なのではないかと考え、試験的に行なってみた。

感じたのは、参加者の人達に「どこに向かっていったらよいのか?」という迷いのようなものがあったこと(実際はそうでもなかったのかもしれないが)。
『うそエピソード』がかなり盛り上がっていただけに、それに比べるとどうも盛り上がりきれなかったような印象があったためである。

まあ、これについてはある程度対応策のようなものは現時点でもいくつか浮かんできていて、

・テキストを人数分用意してすぐに手元でその描写を確認できるようにする
・「統一見解を出すことが目的ではない」というアナウンスを入れる
・マンツーマンの時のようなインタビュー形式ではなく、自分は司会・進行役に徹する

といったようなことを行なってみるだけでだいぶ変わってくるのではないかと思う。

マンツーマンの時にはなかなかうまくいっていただけに、それをそのまま集団に適用できるのではないかと思っていたのだが、そうそう甘くはなかったようである。


が、そうは言ってもそんな中でもかなり面白い発見も沢山あり、このエクササイズの可能性には非常に手応えを感じているのも事実だったりする。

今回の例で言うならば、『蜘蛛の糸』の冒頭に登場する「お釈迦様」を西田ひかるみたいな人なんじゃないかという意見が出てきて、その影響なのか「みんな玉のようにまっ白で」という言葉を読んだ際に何故かフルーチェが頭の中に浮かんできた人がいたのは、本当に興味深い事実であるなと思う。
おそらく、『蜘蛛の糸』を読んでフルーチェを思い浮かべた人は後にも先にも一人だけではないだろうか(笑)。

また、お釈迦様を西田敏行のイメージで読んでみた際には、「何とも云えない好い匂いが」という描写の辺りで焼き魚の匂いをイメージしてしまったそうである(『釣りバカ日誌』からの連想だったそうで、、、)。
この焼き魚は自分の中にはないイメージであったので、非常に新鮮な意見であった。

こういったことをやり取りした上で改めてその描写を読んでもらったのだが、その読んでいる様子を見ていても、明らかに初読の時とは声質もリズムも変わってきているのが分かった。

はっきり言って、朗読の際には何をイメージしてそう読まれているのか、ということは100%伝わることはないだろうし、それでいいと自分は思っている。
しかし、何もイメージしていないなという時や、ありきたりなイメージしかできていないというのは案外伝わるものである。また、自らのイメージを説明的に押し付けようとしている時も、不快感を伴って伝わっているものである。
「何を考えているのか分からないけど、なんか面白い」という状態の時こそ、観客の興味は掻き立てられるものであったりする(但し、分からなさ過ぎても興味は失われてしまうもので、その匙加減が難しいのだが、、、これは「チラリズム」の美学に通じるかも)。

だからこそ、今回のような作業を通じてイメージ力(ある種の妄想力)を鍛えることは、言葉を扱う世界の人間には非常に重要なことである。

確実に成果が見えていたので、今度はしっかりとした準備をした上で試してみたいと思う。


≪うそエピソード(人)≫
●内容
2人1組となり、即興で相手のことを嘘で紹介してゆく。

●気付いた点
・着想としては悪くない、が、ひとつのエクササイズとして確立させるにはもう一手欲しい気がする

・相手を無視して自分一人だけで進行させてしまうと、なかなかうまくいかない(共同作業の意識を持つことの重要性)
→ 相手に話を振ったのならば、ちゃんと回収することを大事にする

・物を扱った時と同様、自分と相手との関係性やエピソードについて扱っていった方が、やり取りそのものがスムーズにいくのではないだろうか?

●行なってみて
物相手に行なっていた『うそエピソード』を人相手でも行なえるのではないかと考え、実験的に行なってみた。

やはりというかなんというか、物に対して行なう時よりも遥かに繊細だなと感じた。
何より、相手からのレスポンスがあるということが事態を複雑にしているようである。

己の主張だけに終始してしまうと相手がついていけなくなってしまったりするのが見ていてもよく分かったし、逆に相手任せであってもなかなかうまくいかないのである。
やはり、相手との共同作業なのだということを忘れてしまってはいけないのだと思う。

発想を飛躍させてゆくことも大事だが(最終的にはそこへ行きたい)、まずは相手の受けやすいポイントや一緒に楽しめる呼吸を掴んでゆくことが大切なのではないだろうか。

いきなり無茶な球を投げることは必ずしも悪いことではないと思う。
もしかしたらその球を取ることができたりして奇跡のようなやり取りが生まれるかもしれないし、相手との関係性によっては、そこに2人でチャレンジすることにやりがいを感じることだってあるかもしれない。
が、相手がその球を取ることができなかったにも関わらず、或いは、相手がそういう気分ではない状態であるにも関わらず、そのことを気にも留めずに同じように無茶な球を投げ続けてしまうようならば、必ずや悲しい結果を生んでしまうことだろう。

「自分のやり易いやり方を押し付ける」のではなく、かといって「相手に迎合して自分に妥協する」のでもなく、「一緒に気持ちよくなれる」「共に活かし合える」地点を探りつつ、行なってゆくことが大切なことである。

そこが、物を対称にした時とは大きく違う点のようである(ただ、個人的には物に対してもそれくらいの想いを持って向き合ってもよいのではないかなとは思うのだが)。

上記のような点を踏まえて、もう一手、何かしらルールを加えた方がいいような気もするのだが、その一方でこのままでも構わないのではないかというような気もしてきている。
とりあえず、もう少し二人一組であることの方に重きを置けるようなルールを考えてみようかなと思う。

まだ、このエクササイズについては検討の余地がだいぶ残されているようである。


≪個人的な反省など≫
●気付いた点
・ファシリテーターという立場であるにも関わらず、干渉し過ぎ

・話す体力が確実に落ちてきている実感がある

・テーマの設け方を考え直してみた方がよいかも

●行なってみて
ちょうど先週に体調を崩してしまったこともあって体力が落ちていたせいか、今回の勉強会は最後まで高い集中が保てていなかったように感じた。
その表れとして、後半にいくにつれて進行に遊びが少なくなってきてしまい、エクササイズ中の指示や誘導が、自分の意図通りに進められるような直接的になってきていた。

気負って頑張りすぎてしまっていたのかもしれない。
もう少し、余裕を持った姿勢で臨めるようにしたい。
そのためには、もっと準備を入念にしてゆくことが重要になってくるのではないかと思う。


また、帰り際にも話題になったのだが、設けたテーマと実際の内容について若干のずれが生じてきてしまっているような気がする。
これについても、見直してみる必要がありそうである。

まだまだやるべきことは沢山ある。
焦らずに、一つひとつを確実に改善させてゆく努力をしてゆきたく思う。
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by syohousen | 2009-07-27 11:05 | レポート(勉強会) | Comments(0)

7/25(土) 半歩WSレポ

7/25(土)9:00~12:00 半歩先へ進むためのワークショップ @大蔵地区会館

【外界への印象】
《天候》
●晴れ
◆WS前
・晴れているはずなんだが、どうもすっきりとした感じがしない
◆WS後
・風がすごく気持ちよい
・日差しが熱い

《空間》
◆WS前
・電気は明るいはずなのだが、なんとなくぼんやりとした印象
・空気が篭っている
◆WS後
・室内の色がくっきりとしたような感じ
・室内外で沢山の音が聞こえてきて、実は意外と賑やかだったことに気付いた

【身体状況】
◆WS前
・首の後ろ辺りが詰まっている
・腰を中心に、全身重い
・表情が固い(主に口と眉間)
・足が熱をおびている感覚
◆WS後
・すっきりした
・アンテナの感度がかなり増した
・全身が充実感に満ちている
・が、たぶん時間が経ったらその反動(湯疲れのような)がくるような予感がする

【本日のメニュー】
■現在の身体状況を感じたまま言葉にする

■仰向けになって、意識を巡らすポイントを徐々に指先から全身へと広げてゆく
■フィードバック

■椅子に座り、肩から先で気になるポイントを手でさすって緩めてゆく
■指先から様々な動きを試しつつ、その可動範囲を体幹に向けて徐々に広げ、最終的には全身へと広げてゆく
■施し足りないなと感じる部分を、比較的ダイナミックな動きを使って遊ばせながらほぐしてゆく
■仰向けになった状態から、股関節を中心に遊ばせながらほぐしてゆく

■全体のフィードバック&雑談

【レポート】
今日は、参加者が自分一人だけであったため、宏平さんとのマンツーマンでのWSであった。
そのため、普段よりも更に丁寧な形で、一から身体のチューニングを行ってゆくという進行となった。

実は昨晩ほとんど眠れなかったために今日は朝から身体が非常に重かったのだが、それだけに今日のような進行であったのはとてもありがたかった。
特に、自らの肉体のパーツ一つひとつへと意識を届けてゆく作業は、自分の肉体がひとつの固まりとして意識されてしまっていた朝イチの身体状態にはまさにぴったりのエクササイズであったと思う。

そのように一つひとつのエクササイズを丁寧に行ってゆく中で、ひとつ面白いことに気付いた。
それは、「足の指と手の指の関節の数は同じ」ということである。や、もしかすると普通は知っていて当たり前のことなのかもしれないのだが、これまであまりそんなことに思いを巡らしたことがなかった自分にとっては非常に驚きであった。
如何に己の身体について見落としている点が多いのか、この一事によって戒められた気がする。


今日はマンツーマンということもありWSそのものは2時間ちょっとで終わった。
残りの時間はフィードバックを兼ねて宏平さんと1時間ほど色々話をさせて頂いた。
自分は指導者としても役者としても宏平さんのことを尊敬しているので、この1時間は本当に貴重であり、また、得たものも多いとても楽しい時間であった。

このところ、自分の行っていること、目指しているものについて考えさせられることが多かったのだが、こうして宏平さんと想いを交換させて頂いたことによって勇気を与えてもらえたような気がする。

まだまだこんなことで負けてはいられない。
これからも、強い意思を持って、己の信じる道を突き進んでゆきたいと思う。
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by syohousen | 2009-07-26 09:11 | レポート(外部受講) | Comments(0)

「指導」において重んじていること ⑥

集団を対象にした指導を行う際は、
参加者に一人の「お客さん」も作らないようにすること。
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by syohousen | 2009-07-25 06:33 | 指導について | Comments(0)

ひとつの終わり

昨日、6年もの間続けてきたバイトの最後の出の日となった。

バイト先そのものが、
諸事情(主にはこの不況が原因なのだが、、、)により閉まってしまうためである。


「ものごとには必ず終わりがくるもの」

それは分かっていたつもりではあったのだが、
初期の頃からのメンバーであった自分としては
非常に寂しい気持ちになったのが正直なところであったりする、、、


こちらでも常々書いていることでもあるのだが、
やはり当たり前なことなんて何もないのである。

日頃からそのことは意識していたはずなのに、
こうして実際に経験してみるとやはり辛いものであるなと痛感している。

しかし、自分の中にはこの6年間経験してきたものが確実に生きているはずだ。
それだけは決して無駄にしたくないなと、してはならないのだと思っている。


これまで、本当にありがとうございました!
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by syohousen | 2009-07-24 09:29 | つれづれと | Comments(0)

「戦いのリング」

「戦いのリング」に上がろうとしない人間が、
己自身には責任の存在しない場所から机上の空論の域を出ない批評をする、、、
こういう事例が多いような気がするのは何故だろうか。

自分は、こういう意見を参考にすることはあっても、
決して意に介するようなことはしたくはない。


ただ、どんな世界の人であれ「戦いのリング」に上がっている人の意見だったら
いくらでも聞くし、また、その忠告が自らの発言に責任を持った上での
言葉であるならばどんなことでも素直に受け入れるつもりだ。

思うに、自らは己の身に危害の及ばない
安全な場所から出てこないにも関わらず、
相手の考え方だけを変えてやろうなどというのは、
都合がよいにもほどがあるというものである。


人の考え方を変えようとするということは、
人の人生を変えようとするということでもある。

その重さを理解している人間の忠告であるならば、
自分は感謝と敬意の心を持って受け入れるつもりだ。

が、その重さを理解していない人間の忠告までも受け入れられるほどには
自分はお人好しにはなれないし、また、余裕もないのである。残念ながら。
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by syohousen | 2009-07-23 08:06 | つれづれと | Comments(0)

自分自身のものさしで

ご存じの通り、昨日、衆議院が解散した。

おそらく自分は、最後の最後まで誰(どこ)に投票するか迷う気がする。
それくらい、今回の総選挙での一票は重い意味を持っている。

とてもじゃないがマスコミの作り出した偏った印象を頼りにした
「思考停止票」を投じてしまうなんてことはしてはならないことである。

国民一人ひとりが各党のマニフェストをしっかりと読み、
具体的な根拠を持った上で投票を行うようにせねば、
どこが政権与党になっても事態は悪化するばかりだと思う。


そもそも「お上任せ」の発想と、
「好き」か「嫌い」かなどというなんとも当てにならない気分だけで
投票してしまうその無責任な姿勢が、今の日本の政治の混迷を招いた
原因の一端を担っていることは否定できないのではないだろうか。

自分達にとって何がよりよい選択なのかをとことん考え抜いた上で、
その与えられた一票の行方には最後まで責任を持つ。

選択を自分以外の人間のものさしに委ねたりするのは、
その貴重な一票の使い方としてはあまりにも勿体なさ過ぎる

「政治は決して他人事ではない」

まずはそういった意識を国民一人ひとりが持つことからなのだと思う。
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by syohousen | 2009-07-22 07:52 | つれづれと | Comments(0)