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6/29(月) 【くすり箱セミナー】 レポ

6/29(月)18:00~19:30
【芸術家のくすり箱・コンディショニングセミナー】
『アレクサンダーテクニーク』(A)クラス 最終日 @芸能花伝舎

【本日の流れ】
■ハンズオンワーク
■真っ直ぐ立った状態で、前後に倒れるのを補助の人が受け止め、戻す

■アクティビティ(座る→立つ、投げる、跳ぶ)

【印象的な言葉】
「“いい姿勢”という概念に自分の身体を当てはめたのか、
“より楽になろう”と自らの感覚に沿った状態を探しているのか。」

「筋肉でやらないで、意識で持っていく。」

「身体が硬い人、或いは嫌な人を相手にした時、
自分自身が無理していたり意気込んでいたりしていないか見てみる。
『やってやろう』とすると、自分が硬くなる。自分が硬くなると、相手も硬くなる。」

「自分の想いが刺激になり、それによって必要分以上の緊張を生んでしまう。」

「意識のベクトルと、動き出そうとした際に身体が求めるベクトルの違いを自覚する。」

「受け入れられた感じ。」(腕だけの力を全身の力に変えた時に出た参加者の言葉)

【気付いた点】(カッコ内は、その時のエクササイズ)
◆余計な緊張が生まれる時というのは、どこか動きに滞りが見られたり、部分の力だけで動こうとしてしまっていることがよく分かった。(ハンズオンワーク)

◆他の人の身体を自分の身体の感覚に置き換え、同調させることによって、その人のどこに緊張があるのかが、端から見ていて分かるようになってきた。(ハンズオンワーク)

◆倒れるのを受け止めてもらっている際、お尻の力を抜いてみたら身体そのものが上の方へ伸びたような感じがした。→背が高くなったような感覚。(真っ直ぐ立った状態で、前後に倒れるのを補助の人が受け止め、戻す)

◆体重が逃げることのないよう下半身で受け止められた状態だと、全身無駄な緊張もなく、真っ直ぐ楽に跳ぶことができた。感覚的には「ふわっ」とした軽い質感で、とても気持ちよかった。(アクティビティ)

【レポート】
セミナー最終日。

「自分で自分の感覚に驚く」という体験が今日もできた。
特別難しいことは行なっていないはずなのに(但し普段しがみついているものを手放すのはとても勇気のいることではあるが)、こうも劇的に身体というものは変わるものなのかと感動すら覚えるその変化であった。

もしバスケをやっていた時にこのメソッドに出会っていれば、或いは現在も続けられていたんじゃないか、、、思わずそんなことが頭をよぎってしまうくらい楽に、そして軽く跳ぶことができた。
それと同様に、物を投げる際にも、立ったり座ったりする際にも、「あれ?」と思わず声が出てしまうくらい楽に行なえた。

ふと気付いたのだが、この感覚って、猫の動きに似ている。
猫というのは動く際、適切な部位だけが適切な力の配分で適切なベクトルに向けて使われていて、人間によく見られる余計な緊張もなければ、力のベクトルがあらぬ方向を向いているため折角のエネルギーを逃がしてしまうようなこともない。
だからこそあれだけ軽い身のこなしでいられるのだと思うのだが、今日の感覚はまさにそんな感覚だったのだ。


この4週間、目から鱗だらけの非常に有意義な時間を過ごさせて頂けた。
そして、このアレクサンダー・テクニークをもっと深く学んでみたいなとも思うようにもなった。

このご縁、この出会いは、今後の自分の人生そのものに影響を与えてくれるものになりそうだと言っても過言ではないくらい、素敵な出会いだったと思う。
だからこそ、これからもこのご縁は大切にしてゆきたい。

どうもありがとうございました。
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by syohousen | 2009-06-30 10:55 | レポート(外部受講)

新郎新婦が素敵だから、

昨日は日頃から非常にお世話になっている
YさんとOさんの結婚パーティーに出席させて頂いた。


演劇人同士の結婚とあってその顔ぶれも非常に個性的な方々に溢れており、
それだけに当然のことながら途中に入る一つひとつの余興も非常にクオリティが高く、
こちらまで幸せな気分にしてくれる実に楽しい素敵なパーティーであった。

特にSさんのネタと、新郎自ら買って出たYさんの一人芝居は、
この両名を敬愛している自分にとっては本当にたまらない組み合わせであったので、
ここ最近の記憶にないくらい興奮している自分がいることに気付きびっくりした。

あの、招かれた側にまで心の底からの幸せを与えてもらえるような感覚って、
ひとえに新郎新婦の人柄が素敵だからなんだろうなと思う。



さて、ここからは個人的な話なのだが、、、

以前些細な事で揉めてしまい、それから長いこと連絡を取り合うことがなかったために
ずっと気まずいままの関係であった方を昨日会場で見かけたので、
一瞬迷ったもののそれでは前進はないと思い、勇気を出して声をかけてみた。

正直何を話すとか一切浮かんでこず、どのような結果になるのかも全く読めなかったが、
そういうことを考えていればいくらでも「避けてもいい言い訳」は浮かんできてしまうので、
とにかくリスク承知で飛び込んでみた。

すると、一瞬の空白の瞬間はあったものの、
その後は拍子抜けするくらい、普通に会話もできた。

まあ、多少のぎこちなさは否めなかったが、それは仕方のない部分である気がする。

むしろ、当時のいざこざが「なかったこと」となってしまっている方が気持ち悪いし、
もしそうであったならば、自分としては今後関わりたくはないなと感じていたと思う。

「ぎこちない」ということは、
お互いに「あのこと」をどうにかしたいから生まれる反応なのだろうし、
お互いに責任を感じているから生まれる素直な反応なのだろうと思うからだ。


案ずるよりも産むが易し。

全面解決、とまではいかなかったが、あの踏み出しは大きな一歩だったと思う。


これも、あの場の素敵な空気が与えてくれた
素敵な作用のひとつだったのかもしれない。

昨日受け取ったあの幸せなエネルギー。

それを今度は自分が周りの人達へと還元し、素敵な循環を生んでゆけるようにしたい。
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by syohousen | 2009-06-29 10:19 | つれづれと

つい、

一昨日の話なのだが、友人であるTさんの公演を観に行ってきて
その終演後に楽屋へと挨拶に行くと、そのTさんが自分の姿を確認するなり
突然こちらめがけてすごい勢いでダッシュして近付いてきたので、
何故か自分も思わず逃げ出してしまった(笑)

自分自身でもなんで逃げたのかよく分からないのだが、
ついつい反射的に本能的に、考えるよりも早く身体の方が反応してしまったらしい、、、

あきらかに危害を加えられるような要素もないし、危険など一切ないはずなのに、
むしろ向かってくる時の質感はポジティブなものであったのに、
や、自分の身体のことにも関わらず、とても不思議な反応だったなと思う(笑)

やはり人間の身体というのは面白い。



ていうか、Tさん、逃げ出してごめんね。
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by syohousen | 2009-06-28 09:03 | つれづれと

実るほど、、、

物事は、取り組めば取り組むほど、発見が増えれば増えるほど、
やりたいことややらねばならないこと、分からないことや知りたいことが増えてゆく。

しかも、例えば一つのハードルを越えたとすれば、
その先に見えてくるハードルはその数倍だったりするので、
そのハードルを越えたことを誇っている暇などないのだ
ということを骨の髄まで思い知らされてしまう。


「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」とは、よく言ったものだと思う。

でも、だからこそ楽しいのだが。
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by syohousen | 2009-06-27 07:22 | つれづれと

画面の向こう側の存在に、

web上のやりとりで忘れてはならないのは「画面の向こう側の存在」であると思う。

そこにある文字とだけ向き合うのではなく、「如何にその言葉に到ったのか」という
相手の事情にまで思いを巡らせることのできる想像力を持つことができなければ、
こちら側の主観的なものの見方でしかその言葉を捉えることができないために
誤解を生んでしまう危険性が高くなるだろう。


画面の向こう側に存在している相手も、自分と同様に血の通っている人間である。
喜びもすれば悲しみもする生きた人間である。

そもそも、生きた人間同士がコミュニケーションをとろうとした場合に、
言葉だけで自らの想い全てを伝えることなど不可能であることは、
ほとんどの方がこれまでの人生で嫌というほど経験してきていることのはずだ。

ならばそれと同様の苦労を画面の向こう側の人だってしているはずである。

だからこそ、文字だけのやりとり(厳密には「文体」や「返信までの所要時間」のような
「無意識的に生じた非言語のメッセージ」も含まれており、
必ずしも「文字だけ」とは言い切れないのだが)の場合には、
「相手の伝えようとする苦労を思ん測る」という「お互いの歩みより」が
とても重要な要素なのではないかと思うのだ。


そう考えてみた時、ここでもやはり「自分以外の存在に対する敬意」と
それを持つことのできる「謙虚さ」というもの達の重要性に繋がってくるらしい。

それはつまり、web上でよく見られる殺伐としたギスギスした空気というものは
そこにいる人間達の「傲慢さ」が生んだものであって、
web上でのやりとりそのものの特性とは違うということでもある。


結局、どんなに優れたツールであっても、それを使用する人間次第という訳か。
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by syohousen | 2009-06-26 09:57 | つれづれと

日常の風景から、

例えば、電車に乗っていて、
誰が置いたか分からない空き缶が足元に転がってきた時、
傍目から何の違和感もなく拾える人。

こういう人こそ、優れた俳優なのではないかと思う。



存在を主張し過ぎず埋もれずで、何の違和も感じさせない的確な存在のあり方。

これは目の前の状況に対して身体が「ぱっ」と反応したからこそ生まれた結果である。

「どうしようか」や「全くけしからん」というように、
思考や評価が反応の中に混じってしまえば、
その時点で目の前の現実との対立関係が生じてしまうし、
行動の純度も落ちるため「やっている」或いは「やらされている」感が強まってしまう。


常日頃から目の前の状況に「ぱっ」と反応し、
その場において過不足なく的確な存在のあり方でいる。

どちらも俳優にとっては欠かせない能力である。


冒頭で挙げたようなシチュエーションは、
少し注意を傾ければいくらでも日常に存在している。

そう考えてみれば、俳優としての訓練の場は驚くほど沢山巷に転がっているはずだ。

何気無い自らの行動に対する意識や見方を変えてみるだけでも、
己の引き出しを増やすことは可能なのだから、
「即興力を訓練するにはインプロでなければならない」とか
「俳優としての地力を向上させるためには然るべき訓練を積まねばならない」とか、
そういう発想にとらわれて自らの選択肢を狭める必要は全くないと思う。


但し、ここで述べているのは“然るべき訓練”というものの存在及び意義を
否定するものでは決してないということだけは念のため記しておく。

否定するとすれば「“然るべき訓練”さえやっていれば大丈夫」という
『訓練の場でだけしか努力を行わない姿勢』や「技術なんか関係ない」という
『テクニカルな要素を全否定する姿勢』である。


まあ、そこら辺のことについて書くとなると長くなってしまうため、一先ず本日はここまで。
続きはまたの機会に改めて。
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by syohousen | 2009-06-25 07:43 | つれづれと

「真ん中」であることの大切さ

「親○○」「反○○」、正義か悪か、右か左か、、、
などと思想を綺麗に二つに割ってしまいたがる人は多いが、
そうすることで捨ててしまわなければならないものが
生まれてしまうことを決して忘れてはならないと思う。


そもそも「人の好き嫌い」という直感的な感情であっても、
「俺はあいつが嫌いだが、あの目的のため努力を惜しまないところは認める」とか
「彼のことは好きなんだけど、あの頑固なところはどうしても苦手」とか、
そういった紛れが少なからず存在しているはずである。

しかし、そこを「好き」「嫌い」という二つの感情で綺麗に分けようとするということは、
上で挙げたような紛れが存在するという矛盾を許さない、
非常に窮屈な発想に繋がってしまうことになる。

それと同様に、冒頭で挙げたような「二つに一つ」というような
極端な思想の分け方で物事を捉え、発想してゆこうとすれば、
知らず知らずのうちに見落としてしまっているものが沢山出てきてしまうのではないか。

自分は、そういった発想は非常に「もったいない」のではないかと思ってしまう。


どちらにも属しているようでどちらにも属してはいない、
いわゆる「中道」の思想というものは、どちらからも賛同を得られることもあれば
どちらからも叩かれることもある。

それどころか「はっきりしない奴だ」という評価さえ下されてしまうことだってある。

逆にどちらかに寄っていれば、
周りから見ても主義主張が「分かりやすい」し、一見「潔く」も見える。

しかしそれでは「どちらかの思想」という立ち位置からでしか
物事を捉えることはできないのではないかと自分は思ってしまう。


もし物事における大事なことを、色眼鏡を透さず的確な形で見極めようとするならば、
この「真ん中に」という発想は必要不可欠なものではないか。

また、ひとつの選択をした時に
選ばれなかった選択の可能性を全てなかったことにしてしまっては、
発想というものは拡がってゆかないような気がする。

そういう意味では、「揺らぎ続ける」ことというのはあながち悪いことではないのだと思う。
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by syohousen | 2009-06-24 07:15 | つれづれと

6/22(月) 【くすり箱セミナー】レポ

6/22(月)18:00~19:30
【芸術家のくすり箱・コンディショニングセミナー】
『アレクサンダーテクニーク』(A)クラス 3日目 @芸能花伝舎

【本日の流れ】
■ハンズオンワーク
■マッピング(胴体と肩の関係、足首や指の間接の位置)

■自分のパフォーマーとしての活動への応用

【印象的な言葉】
「身体の中が動き続けていられるのならば、
外見には静止しているような状態であっても辛さや身体への負担は減らせる。」

「パーキングに入ってしまうより
アイドリングし続けている状態の方が走り出しはスムーズなのと同様、
身体の中身が動き続けている方がすんなり動き出すことができる。」

「ハンズオンワークで変化した身体が普段の状態に戻ってしまったことに気付いた時に、
その動きをあえて自らやってみて、そうしてからやめてみる。」

「考えてしまうと止まってしまうので、それをやめる。手放してしまう。」

「手放すことを目的にしてしまうと、難しくなってしまう。」(参加者の方の言葉)

「分からないことを分かったフリするから余計に分からなくなる。」(参加者の方の言葉)

【気付いた点】(カッコ内は、その時のエクササイズ)
◆大腰筋が使えていた時、これまで動いていた時に使っていた筋肉が楽なままで立ち上がることができた→今まで考えていたよりももっと奥の方の筋肉を使っていた感覚があった。(ハンズオンワーク)

◆指の間接の正確な位置を知った時、以下に自分が見た目(皮膚に付いてる皺など)に惑わされているのかを痛感した。(マッピング)

◆「身体の中で動き続けている感覚」が体験できた気がする。(ハンズオンワーク)

◆思い込みによって起こる余計な緊張によって、如何に自分の動きが邪魔されていたかを実感できた。(本日全般)

【レポート】
早くもこのセミナーも3週目を迎えた。
内容の方も、徐々に実践的な動きの中で生じる負担などに目を向けてゆくようなものへと変化しつつあるように感じる。

今回自分が最も感銘を受けたのは、「身体の中で動き続ける」という感覚を体験できたことである。

どうも自分は“静”と“動”の動きでは“静”の動きの方が苦手で、動きを抑え込もうとしてしまうと、その抑えられた身体に伴って内面の方までもが落ち着いてきてしまう傾向があった。
そして気持ちの落ち着きと共に身体の中にも動きの滞りが生まれ、楽をしている部位と負担がかかり続けている部位が明確に分かれてしまうために、ある特定の箇所(自分の場合は腰)を痛めてしまうような結果を引き起こしていた。

しかし、今日の最後に先生に触れて頂くことで体験した感覚は、見た目には静止しているのだろうけれども身体の奥のそのまた奥の方で自らの身体を探っているような不思議な感覚だった。
非常に僅かな変化を繰り返しながら、自分の身体がやっていることを探り、見つけたらそれをやめる、、、ということをひたすら繰り返してゆくだけで、いつしか同じ姿勢でいることが苦にならなくなっていた。というよりももはや「同じ姿勢」という感覚ではなく、単純に動きの大小の違いのせいで周りには静止して見えるだけなのだなということが分かった気がする。

どこかで楽をするということは、どこかに無理を強いていることであり、それは結果的に、全体から見れば辛さに繋がってくるのだ、ということを実感できた。

「全体を見渡しながら、その中の一点にフォーカスを搾る」

おそらくはそういう感覚が大切なのだと思う。
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by syohousen | 2009-06-23 11:29 | レポート(外部受講)

「ぶっちゃける」ということ

数年前にNHKのとある番組(何の番組だったかは忘れたのだが)を観ていた時に
非常に共感を覚えたためにメモしておいた言葉がある。

そのメモを久しぶりに見つけたので、ここに記しておこうと思う。

「今の若者は“ぶっちゃける”事それ自体が正しい事、本当の事なんだと思っているけれど、それは『本当の事』というものを甘く見すぎている。それはその場の気分で自分の身勝手な感情をぶつけるだけの単なる思い付きでしかない。本当の事というのは、しっかりと深く考えた上で『何が間違っているのか』『自分の考えを伝えた後どうしたいのか』にまで目を向ける事なんだ」


たしかに、自分の知る限りでは

正直=本当の事

と考えている人がとても多いように感じている。


「正直」というのは言ってみれば主観の塊みたいなものであり、
それが「正しい事」であるということには必ずしも繋がってくるものではないはず。

“ぶっちゃける”のはあくまでも「手段」であって「目的」では決してないのである。

確かにぶっちゃけるのは気持ちがいい。
「言ってやったぜ!」というような満足感がある。
しかし、それはあくまでも自己満足的なものでしかないような気がする。

時にはぶっちゃけるのが必要になることもあるだろうが、
あくまでもそれは数ある「手段」の中のひとつでしかない。

結局、それが分からなくなってくるから、
いつしか“ぶっちゃける”ことそのものが「目的」になってしまうのではないだろうか。


そもそも、本心を伝えるという行為が果たして気持ちいいものなのだろうか?
自分としてはむしろ苦痛を伴う行為であるのだが、、、

もし仮に気持ちがいいのであれば、
それは思考を放棄した思いつき、感情任せの意見に酔った時の反応であることが、
自己を翻ってみても多かったような気がする。


思うに、何故そんなことができるのかと考えた時に浮かぶのは、
「都合が悪くなれば切ってしまえばいい」という発想なのかもしれないということ。

確かに切ってしまえば後腐れもないから気持ちよくなれるだろう。

しかし、「この人を何とかしてあげたい」という気持ちから意見を言うのであれば、
絶対に言いっぱなしにはできないのではないかと思うのだがどうだろうか。

もし「何とかしたい」という気持ちで意見を言うのであれば、
相手からの反論も受け止める覚悟で意見をぶつけなければならないからだ。

今後も繋がりを失いたくはないのだから。


どうも、近頃の人間関係の希薄さがこの一事の中に象徴されているような気がする、、、

切る=非情
非情=リアリスト

もしそう思っているのだとしたら、それは間違いだと思う。
むしろその方が厳しい現実から目を逸らしているだけの現実逃避なのではないか。


「正直」や「純粋」などがもてはやされる傾向がある昨今。
たしかにそういった気持ちは大切なことであるし、非常に価値のあることなのだとも思う。
しかし、だからこそ、その気持ちの根っこにあるものを見逃してはいけない。

その正直さは「自分だけに正直」になってはいないだろうか?
その正直さに最後まで責任を持てるだろうか?

そこまで考えてみて、初めてその「正直さ」が輝きを放ち始めるのだと自分は思っている。
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by syohousen | 2009-06-22 09:51 | つれづれと

6/20(土) 半歩WSレポ

6/20(土)9:00~12:00 半歩先へ進むためのワークショップ @上祖師ヶ谷地区会館

【外界への印象】
《天候》
●晴れ
◆WS前
・日射しはあるのだが、ややしっとりとした感触
・「白い」印象
◆WS後
・とにかく明るい、ひたすら明るい
・でも、カラッとはしてない

《空間》
◆WS前
・外の明るさと室内の蛍光灯の明るさの質の違いが気になった
・床が汚い
◆WS後
・窓を開け放っていたせいか、いつの間にか外と室内の境目がなくなってきていて、この部屋はやっぱり外と繋がっているんだなとふと感じた
・結構壁がボロボロだったんだなということに気が付いた

【身体状況】
◆WS前
・来る際の電車の冷房のせいか、特に肩周りが冷気を引きずって嫌な感覚
・食道が気持ち悪い
・上半身と下半身の緊張具合のバランスが変
・気持ちの方は気負いもなく落ち着いている
◆WS後
・背が高くなったような気がする
・なんだかおかしくて、何故か勝手に笑い出しそうになってしまうよく分からない気分
・なんとなく、身体も気持ちもふわふわしてる
・周りの音がすごく入ってくる
・上に対する意識が強まった

【本日のメニュー】
■現在の身体状況を感じたまま言葉にして垂れ流してみる
■気になっているポイントを手でさすって暖めてゆく
■横になって転がったりしながら、気になる箇所をねじったり伸ばしたりしてみる
■うつ伏せになり、足の方から左右に揺らして徐々にその範囲を広げてゆく
→肘で上体を起こした状態で
→四つん這いの状態で

■王様マッサージ(三人一組で各人一回ずつローテーション)

■片手ずつ肩から先を揺すったり振ったりしてロックを外してゆく
→同様のことを足で

■椅子を利用して足を中心に刺激を与えてゆく
→下半身全般に移行

■横になり、膝を立てた状態でその膝を左右に倒してゆくところからはじめて、そこからフリースタイルで気になる部位を様々な手段でほぐしてゆく

■片足開脚の状態で、上半身をねじったり伸ばしたりして自分の身体を観察する
■自分自身で足のマッサージ
→足ツボを刺激してみる
→土踏まずを30~50回程度叩いてみる

■全体のフィードバック

【レポート】
約1ヶ月半ぶりとなる半歩WS。
しかし、そのブランクもあまり感じず、むしろこれまでよりも一つひとつの行為に対して楽しめるような心境でWSへと臨めた。
特に、隣の部屋の子供や外で遊んでいる子供達の声が素直に耳に入ってくるような状態で、しかしだからといってそれが自分の行なっていることの邪魔をするでもなく、そのポジティブなエネルギーだけを受け取らせてもらえたので非常に気持ちがよかった。
精神的に余裕が出てきたのだろうか?

まあ、いずれにせよ、この気持ちのよい状態が自分にとっては大いにプラスの方向に働いてくれていたようである。
「あ、ここがうまく動かないな、、、」とか「なにかと呼吸が止まっちゃうんだよな」とかいうネガティブな発見があった時でも、気分までもがネガティブになったりはせず、「さーて、どうやってこの課題をクリアしていくかなー」というようなポジティブな心持ちが自然に生まれていた。

こういう状態の時は、素直に身体の反応に向き合うことができるため、普段よりも自らの身体の変化に対しての発見が多いような気がする。
意識が変わることで身体が変化するのならば、まずは心の構えを取り除くことから始めるべきことであり、そういう意味で今日の自分の状態はとてもよい傾向であったと思う。
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by syohousen | 2009-06-21 09:59 | レポート(外部受講)