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己を信じるということ

「自分は変われる」と信じ続けることができる人というのは、
自らの日々の変化に対し非常に敏感なので、どんどんと変わってゆくことができる。

逆に「自分はこういう人間だから」などと自らの可能性を限定させ、
己のことを信じることができない人というのは、
自らの日々の変化に対しての関心が薄いため
たとえ小さな変化が起ころうともそれに気付くことができず、
せっかくの変わることのできるチャンスとの出会いに恵まれようとも、
結局はその大半をのがしてしまうだろう。

ほんの些細な違いなのかもしれないが、
日々の積み重ねであるだけにこれは最終的には非常に大きな差となる。


なかなか自分のことを信じることができないという方もいるかもしれない。

が、そもそも「信じる」という意思を持つには非常にエネルギーがいるものであり、
また、コツもいるのでそんなに簡単に身に付くものでもないのである。

よって、「自分には自信がないんです」などと言っておきながら
何の努力もせずに楽をして自らを信じようとしている人間には、
決して自信はつかないものだと考えた方がいいだろう。

現実に揉まれながら「自惚れ」と「自己嫌悪」を繰り返し、
少しずつ「己を信じる」ことのできる強い意思を鍛え上げてゆく。

それこそが、自らに自信を備えさせ、
自らを成長させてゆくために必要不可欠な手段なのだと思う。
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by syohousen | 2009-05-31 07:08 | つれづれと

大事にしていること ④

探すなら、

「やらない言い訳」

よりも

「やれる道筋」



「雨だから何もできない」とか、
「お金がないから動きたくても動けない」とかいう発想では、
おそらくそれらの条件が揃ったところで変わらないと思う。

雨の日にだってやれることはいくらでもあるし、
雨の日にしかできないことだってある。


自分は「雨の音」がとても好きなのだが、
そのせいか雨の日は雨の日なりにうきうきしてしまう。

どんな状況下であっても、結局は捉え方次第なのだろうなと思う。
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by syohousen | 2009-05-30 09:13 | つれづれと

“お願い”ではなく“感謝”

自分は、「お参りをする」という行為は“感謝”を表するために行うものだと思っている。

つまり、「○○が叶いますように」「ご縁がありますように」という
“お願い”のためにお参りをするのではなく、
「これまで見守って下さりありがとうございます」
「これまでの沢山のご縁をありがとうございます」
という“お礼”のためにお参りをするということだ。


別にこの考え方が素晴らしいとかそういうことは思っていない。

また、そもそも自分は無信教だし、
神仏に対する信心は人並み程度のものしか持ち合わせてはいない
(まあ、「人並み程度の信心」がどの程度だと問われても説明できないが、、、)。

が、普段は神仏のことなどに思いを馳せたりしないような人が、
お参りの時になるといきなりその神仏に対して「ああなりたい」だの
「あれがほしい」だのとお願いができてしまうことの滑稽さ、身勝手さは理解できる。


自分は、「ギブ・アンド・テイク」ならぬ「テイク・アンド・テイク」に
なってやしないかと、人から貰ってばかりになってやしないかと、
いつも自らの行動を省みようとする習慣がある。

これまでに受けた恩を生きているうちに全て返しきれるとは
決して思っていないのだが(だいたい、人生において最初に受けた
「この世に生を受ける」ということへの恩返しの時点で返しきれる気がしない)、
しかし可能な限りで返し続けてゆこうという意思は持っており、だからこそ
自分の行動の根本のところには常に「感謝」の念を込めるようにしているのだ。


何かいいことがあったら、それが当たり前のことだなどと
思わずに、素直に「ありがとう」と意思を表してゆく。

些細なことなのかもしれないけれど、とても大事なことだと思う。
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by syohousen | 2009-05-29 09:39 | つれづれと

「議論」の目的

よく感じることなのだが、「議論」というものの目的とはなんなのだろうか?

もちろんケース・バイ・ケースなのではあるだろうし、
しかも自分の狭い世界の中で受けた印象なのだが、
どうも「相手を言い負かす」ことばかりに重きを置いているような
傾向が強まってきている気がする(特にウェブ上の議論)。

そして、そういった人達のやりとりを見ていて感じてしまうのは
「建設的でないなぁ、、、」ということである。


論点の摩り替え、
相手の論の不備ばかりを突く、
挑発的な言葉を用いて敵失を誘う、
極論に逃げ込む、等々、、、

このような論破術のようなものが、
果たして議論で成果をあげるために必要なものなのだろうか?


別に自分は議論において揉めるなとも妥協をしろとも言うつもりは毛頭ない。

ただ、何故にその人にとってのその議論における終着点が
「相手を言い負かす」というところにしかないのかが、よく分からないだけなのだ。

が、もし、その議論による成果をあげるための手段のひとつとして
「相手を言い負かす」ことが必要であるのならば、まあ、分からないでもない
(まあ、果たしてそのような議論があるのかは分からないが、、、)。

しかし大抵の場合はそうではなく、
「自分のプライドを保つために相手を言い負かさねばならない」
ということの方が多いように見受けられる、、、


もちろん、異なる意見同士を闘わせることは非常に大切なことであるし、
それこそが議論における最重要ともいえる要素でもある。

が、大抵の場合、議論において意見を闘わせることの一番の目的となることは
「誰の意見が勝ち残るか」ではなくて
「異なる意見のぶつけ合いによってお互いの意見の利点・問題点を浮き彫りにさせ、
また、一人では到ることのできなかったような発想を導き出す」
ということでもある。

だいたい、「その中で一番優れた意見を勝ち残らせる」というのは、
議論というよりも討論やプレゼンの方が近い訳で、そこを混同してはならないと思う。


議論は、議論そのものを目的としてしまった時から
その建設的な要素は失われ、時間の無駄遣いになり下がってしまう。

何のために今自分達はこうして論を闘わせているのか。
その目的意識だけは決して忘れてはならないと思う。
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by syohousen | 2009-05-28 08:05 | つれづれと

「できる」と「無理」

何をするにしても、やる前から「無理だ」と
決めてかかっていては絶対に事態は進展しない。

逆に、何でもかんでも「できる」などと
楽観視しながら物事に取り組んだとしても、事態は進展しないだろう。


そもそも現実というのは、
「できる」と「無理」で綺麗に真っ二つに分けられる訳ではないのである。


「何が無理」で「何ができる」のか、、、

そこのところをいちいち細かく具体的に捉えながら、
明確な目的意識を持って物事に取り組んでゆくからこそ、
一つひとつの物事の事態は進展してゆけるのだと思う。
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by syohousen | 2009-05-27 07:27 | つれづれと

悪いなりに、

調子のいい時に頑張れるのは、当たり前のことであり、誰にでもできることである。

大事なのは、歯車が狂ってきて何事もうまくいかなくなってしまった時にも
心が折れることなく、調子が悪いなりのベストを尽せるかどうかだ。

そして、そのためには自らが「不調である」という事実をありのままに誤魔化さず
しっかりと受け止められる冷静さと、そのようなベストとは言い難い状態であっても
その限られた中で最大限の力を発揮できるだけの対応力、そしてその事実を
目の当たりにしても決して揺らがない強い意志が何よりも必要なのだと思う。
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by syohousen | 2009-05-26 08:34 | つれづれと

評価と自分

周りの人からの評価は周りの人の問題であり、自分には決めることはできない。

嬉しい評価も、
哀しい評価も、
悔しい評価も、
全ては他者が決めること。

自分にできることは、目の前の状況や人とどう向き合ってゆくか。

それだけだ。


願わくは、周りからの評価に左右されない強い心を持ち続けられる人間でいたいと思う。
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by syohousen | 2009-05-25 08:29 | つれづれと

理不尽との向き合い方で、

現実というものは、しばしば理不尽なものである。

しかしだからといって、
その理不尽さを「理不尽だ!」といくら訴えたところで現実は変わらない。


ならば、どれだけ早い段階で
「ここから如何に動いてゆくか」という発想へと気持ちを切り替えてゆけるか、、、
そこにこそ、その人の器の大きさ、そして質が見えてくるのではないのか。


人のせい、周りの環境のせいにしている限りは事態が改善されることはないし、
そのような発想を元にして周りの環境を変えたところで、
その先の環境下でも不平を洩らし続けることになるだろう。

もし環境を変えたいのであれば、その環境下で
己の持つ最大限の力を出し尽してから考えるべきことなのではないだろうか。


たしかに理不尽なことに遭えば不満は募るものであるし、
そこからうまく気持ちを切り替え前を向くことは非常に難しいことではある。

しかし「理不尽だから」ということが力を尽そうとしないことの理由にはならないと思う。


言い訳や嘆きでは事態は決して変わらない。

変えられるのは“今”の積み重ねだけである。
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by syohousen | 2009-05-24 07:22 | つれづれと

大事にしていること ③

自分は、何か思い付いたり閃いたりしたら、
とにかく今できる範囲内で動き始めてしまうようにしている。

後回しにしてしまうと、
「やらなくてもいい言い訳」が次々と浮かんできてしまい、
どうしても腰が重くなってしまうのためである。


まずはできる範囲で動く。
考えるのは、動きながら。

それは今後も貫いてゆきたいと思っている。
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by syohousen | 2009-05-23 07:42 | つれづれと

自分の中ににどれだけ沢山の人を住まわせられるか

優れた人を見た時、人は様々な反応を示す。

「すごいなぁ」と感心する人、
「ふ~ん」と無関心でいる人、
「人は人、自分は自分」と分けて考える人、
「なんでこいつばっかり、、、」と嫉妬する人、
「わかるなぁ」と共感する人、
「この人に比べて俺はダメだなぁ、、、」と自らを卑下する人、
「俺もがんばろう!」と刺激を受ける人、
などなど、、、

どうやら自分は、この中でいうところの「刺激を受ける人」のようだ。


他者から影響を受け、自らの意識が変わる。

それは別の言い方をするならば
「その人の存在が自分の意識の一部となる」ということだ。


自分の中にどれだけ沢山の人を住まわせられるか。


今後もまだまだ多くの人から刺激を受け続けたいと思っているし、
自らの方からも刺激を与えられるような存在になれるよう精進してゆきたい。
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by syohousen | 2009-05-22 08:31 | つれづれと