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【第7回】声と身体の定期診断

【第7回】声と身体の定期診断

【日程】
2008年5月29日(木)13:00~21:00の中で約30分間(マンツーマン形式)
※ご予約の際自分の都合のよい時間を選んで下さい
※他の受診者の診断の見学も可

●現在の予約状況●
予約可能時間…14:30~15:30、16:00~21:00
予約済み…13:00~14:30、15:30~16:00

【会場】 岩戸地域センター(小田急線『喜多見駅』より徒歩10分)

【料金】 2000円

【対象】 声で悩みを持っている方、自らの声に出会いたい方であればどなたでも。

★受診者の方には、後日処方箋メールをお送り致します。


◆ご予約方法◆
prescription_voice@yahoo.co.jp(声と身体の処方箋)宛に、
以下の情報を記載したメールを送って下さい。案内メールを送らせて頂きます。

■題名:「定期診断の申込」
 ① お名前(ふりがな)
 ② 職業、もしくは普段行なっている活動
 ③ 連絡先
 ④ 参加希望時間
 ⑤ 自分なりに感じている「自分の声の現状」
 ※ 分からない場合は「分からない」と記述下さい
 ⑥ ⑤の回答を踏まえた上で今回の診断に望む事を“ひとつだけ”挙げて下さい
 ※ ⑤で「わからない」と回答した方は、自動的に「自分の声の現状の診断」となります
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by syohousen | 2008-05-29 13:00 | WS・勉強会・セミナー情報

5/26(月)『光と光の中』 稽古14日目

5/26(月)18:00~21:30 天候:晴れ 時々 曇り

【本日のメニュー】
●王様マッサージ
●身体の宝探し(相手の定めた身体のポイントを探す。しかし自分の定めたポイントは触られないようにする)
①フラットな状態で。
②周りの目を気にしつつ(雑踏をイメージ)。
③初対面同士という関係で。

【本日のレポート】
本日は、ここ最近続けて行ってきた「相手を見る」という行為を少々発展させてみた。

会話にせよ何にせよ、「攻め」と「受け」という役割が明確に分離する事というのはそうそうない事だと思うのだが、それが芝居になると何故か100%の意識で相手の話をに耳を傾けたり、逆に話したりする事が非常に多いように見受けられる。
、、、現に自分も役者として参加している公演の稽古場で、少し前までこの状況に陥っていたのだが(苦笑)
しかし人間は、相手の話に集中して耳を傾けていながらも自分の意思は持ち続けているのだし、時には「トイレ行きたいな」とか目の前の状況とは関係ない事すら考えている事もある。かといって相手の話を聞いていないという訳ではないのだ。

基本的に、「攻め手」と「受け手」という風に役割を綺麗に2つに切って分ける事は不可能に近いと思う。

もちろん人と人の間には関係性としての強弱が存在するし、会話の主導権というものも存在する。存在するが、それは相対的なもので、常に状況によってその都度変動し続けているものであり、決してオンとオフのように機械的な性質を持ったものではない。
だからこそその変化は劇的であり、見ている側からしてみると面白く感じるのだと思う。


本日行ったメニューは、お互いが「攻め手」であり「守り手」である。
しかも自分のミッションを遂行するためのヒントは「相手の観察」でしか得る事はできない。
つまり、ひとつのポイントだけにしか意識を置けないようではミッションを成功させる事は限りなく難しいメニューなのだ。
なお、負荷(新たなルール)を増やしていったのは、それによってさらに意識を分散させる事で段階的に、そしてより詳細に、上で述べたような「関係性の揺れ」のようなものを体験して貰うためである。
人が2人揃えば気軽に行なえるメニューなので、機会があればまた試して頂けたらと。
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by syohousen | 2008-05-27 00:06 | レポート(スタッフ参加企画)

5/21(水)『光と光の中』 稽古12日目

5/21(水)18:00~21:30 天候:晴れ

【本日のメニュー】
●2人組マッサージ(言葉なし)
●自分の台詞のみだけを持って読み合わせ

【本日のレポート】
本日行ったメニューは、自分が現在役者として参加している『マームとジプシー』の稽古にてつい先日行ったメニューを拝借させてもらったものだ。
自分もやってみて非常に有効だったので、この座組の方々にも是非一度体験して頂きたく思い、試してみた。

自分の台詞しか分からない役者というものは、嫌でも相手を見ようとする。
何故ならそこにしか頼れるものがないからだ。

しかし、それは特別な事なのか。
舞台上において、目の前に存在している人間を信じずして何を信じるのだろう。
また、それは相手の台詞の分かる分からないに影響されるものなのだろうか。


月並みな表現ではあるが、「会話はキャッチボール」という言葉は非常に的を得ていると思う。
これが相手の言っている事を受け取らない、自分の意図のみを相手に押し付けるような芝居であるならば、それは「雪合戦」となってしまう。
各々が各々の足元の雪から作り出した雪玉を、各々が自分のペースで投げ合う。しかも投げたら投げっぱなしであり、ぶつかった玉は壊れてしまうために必然的に双方とも一方通行同士の関係となってしまう。
別にぶつけ合う事に問題がある訳ではない。
同じぶつけ合うにしても「ドッジボール」であるならば、投げ合っているボールをお互いが共有しているので双方向の関係が成り立っており、そういった関係も芝居においては有りである。

ここで重要なのは、キャッチボールにせよドッジボールにせよ相手が投げたボールをしっかりと認識している点。だからこそ、これらのゲームは成り立つのだと思う。


ここ数日の稽古を見ていて、全体的に「受け」に対する意識が非常に弱いように見える。

基本的に人間は受け身である。
人間の身体は、外界からの刺激を受ける事によって次の行動に向けての衝動が生まれる訳で、外界から何の影響も受ける事がない状態での「自分発の行動」というものは有り得ない事なのだと自分は考えている。
しかし、何故か芝居になると自分から何かをやろうとしてしまうのだが、そういう時の役者の身体というのはやはり嘘をついているように見えるし、「何故その行動に到ったのか」というモチベーションが全く見えないために意味不明なやりとりに見えてしまう。

もっと目に見えるものや耳に入ってくるものに対し正直になってよいのではないかと思う。
たしかに台詞もあるし決まり事も沢山あるので、感じたものに正直になる事によって様々な不都合が生まれてくるだろうが、その不都合を怖がって嘘をつきながら段取りを追うような稽古に何の意味があるのだろうか。稽古というものは、そういった問題の解消のために行なうものなのではないのか。

今一度、生(LIVE)である事の意味(必然性と言った方がいいかも)を、役者さんには考えて頂きたい。
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by syohousen | 2008-05-22 19:34 | レポート(スタッフ参加企画)

5/20(火)『光と光の中』 稽古11日目

5/20(火)18:00~21:30 天候:雨のち曇り

【本日のメニュー】
●2人組マッサージ(言葉なし)
●登場、退場(1人→3人or4人→1人)
①フラットな状態で
②2人目以降が新しい要素を持ち込んで登場する

【本日のレポート】
本日は、昨日の立ち稽古を見ていて感じた「人の出入りによる空気及び各々の身体の変化」に対する意識の弱さを再認識してもらうメニューを組んでみた。

芝居において、人が登場したり退場したりする際には空間全体で何かしらの変化が生ずるはずである。
基本的に、舞台上に人が登場する際には内部の人間とは異質な空気(外の気候や状況)の反映された身体の状態が舞台上へ持ち込まれてくる訳で、内部の人間もその持ち込まれたものによって何かしらの作用を受けるはずである。
それは退場の際にも同様で、誰かしら退場する事によって、残された人間に何かしらの変化が生まれるはずだ。
…もちろん状況によっては必ずしも空気が変化するとはいえない例外的な展開もあるにはある。
が、だからといってこれは芝居創りにおいて決して忘れてはならない重要な要素のひとつである事には変わりはない。

今日のメニューを行う事によって、そこの部分での意識付けの大切さに気付いてもらえたなら幸いである。

本日も大きな反省点があった。
近頃、どうも自分の意図と目の前で行われている事との間のギャップが大きくなり始めているように感じる。
もっと臨機応変に対応できるだけの入念な準備をしてゆこうと思う。
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by syohousen | 2008-05-21 00:16 | レポート(スタッフ参加企画)

5/19(月)『光と光の中』 稽古10日目

5/19(月)18:00~21:30 天候:曇りのち雨

【本日のメニュー】
●空間に馴染む
①好きと嫌い(五感で)
②自らの気持ちのよい場所探し
③他者と関わってみる(言葉抜き)
④役としての気持ちのよい場所探り
⑤役として空間を感じる
⑥他の役とのコンタクトをとってみる(言葉抜き)
●フィードバック

【本日のレポート】
本日は、「役として、ただ存在する事」をテーマにメニューを組んでみた。
何かを行うという事よりも、その空間に、状態だけを作り、ただ存在するという事を味わってもらう、、、とにかくその一点のみに集中した。

役について色々と考えていると、どうしても台本に書かれているものにとらわれ縛られてしまいがちなのだが、こういうアプローチの方法もあるのだという事を実感してほしかった。
こういった作業は稽古場でしか行えないし、ただ台本に書かれた台詞をやりとりするだけの稽古よりも遥かに沢山の発見があるはずだ。
今日のアップの最後に行なったフィードバックがこれまでで最も盛り上がった事にも、各々の役者さんの中での充実ぶりをよく表しているように見受けられる。

きっと、役者間での役についての話し合いと平行してこの作業を行なう事で、役というものを立体的に考える事ができるのではないかと思う。
また、ここでの発見を一つひとつ消化し、台本稽古の際に利用してみる事で、これまでとはまた違った感覚で台本稽古に取り組めるはずだ。

おそらく、以上の作業の繰り返しによって各々の役、それぞれの関係性、そして作品が深まってゆくのだと思う。


また、本日のメニューのもうひとつの狙いとして、「日頃無意識に行なっている集団内での自分の位置取り」というものを意識的に芝居に盛り込めないかを探ってみよう、という点もあった。

人というものは、日常でも何故そこに陣取ったのか説明できないけれども、なぜかその空間に来るといつもそこに陣取ってしまう場所、というものが少なからず存在するはずだ。
特に積極的な理由もなく、ただなんとなくそこにいつも陣取ってしまうポジション、、、
芝居において、こういった「なんとなく」で行なった行為というものはとても馬鹿にできないもので、自分の役にそういったものを盛り込めるか込めないかによってその役の深みは全く変わってきてしまう。

今日のメニューは、そういった要素を探る際にも必ずや役に立つはずだ。
是非今後も試して頂きたい。


、、、と、ここまでは収穫ポイントを書き綴ってみたが、逆に反省点も多かった。

最近は座組のニーズに応えるために様々なメニューをアレンジしてみたり、時には全く新しいメニューを考え出して行なう機会が増えてきたのだが、やはり不慣れなメニューを行なう際にはどうしても自分の考えた意図を追う事にとらわれがちになってしまう。
要するに、余裕がなくなってしまうのだ。

今日も役者さんの都合を置き去りにしてしまうような瞬間がいくつかあった。
また、気を遣いすぎてしまう事で余計な事を考えさせてしまう結果も生んでしまった。

今の自分のやりかたは、非常に大雑把になってきているように感じる。
今一度、自分が指導者として活動をする際に優先すべき事というのがなんなのかを見つめ直そうかと思う。
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by syohousen | 2008-05-20 00:29 | レポート(スタッフ参加企画)

5/15(木)『光と光の中』 稽古8日目

5/15(木)18:00~21:30 天候:晴れ

【本日のメニュー】
●ローテーションゲーム
①フラットな状態でお互いに向き合って
②位置をずらしてみて
③お互いで気持ちのよい距離を探る
④役としての距離感を探ってみる

【本日のレポート】
最近、アップというよりもWSに近くなってきてしまっているので、今一度己のやり方を見直してみた。
「身体的な準備」+「今、この座組に必要な要素への気付き」の手伝いというのが当初定めた自分のスタンスであったはずだ。にも関わらず、最近の自分のやり方はまるでショーケースに陳列された商品のように次から次へと様々なメニューを行い続けていたように思う。
別に自分の仕事はWSメニューの紹介をする事ではないのに、これでは一体何をしているのか分かったものではない。

その反省もあり、本日は現在この座組に必要だと思われる要素と向き合うためのメニューに時間をかけて取り組む、という形式に変えてみた。
具体的に説明するならば、『ローテーションゲーム』という2人1組に分かれて1~3の数字を交互に数え合うだけのゲームを段階的に4つのパターンに分けて行い、己と他者の向き合い方や役との向き合い方のヒントにして頂けるような構成にしたのだ。

もちろん情報としての設定や共演者との共有項が多いに越した事はないし、必要不可欠なものではある。が、それらが単なる情報止まりになってしまったならば、それは「踏まえているだけのもの」で終わってしまう。
今日行ったメニューは、言葉にならない部分での共演者との共有項を探ってみるために非常に有効な手段であり、それまでに積み上げてきた情報としての設定などを立体へと起こしてゆく作業をかなりスムーズにしてくれるものだ。

台詞だけを頼りに役を考えてしまう事は、大概の場合において台本の説明に終わってしまう「二次元の役」を生み、またそれは稽古場を「段取り決めだけが目的という、およそクリエイティブとは縁遠い場所」へと変質させてしまう危険を孕んでいる。
「役としての身体や役同士の関係性がまずあって、台詞はその上に乗っかっているだけのもの」という発想であれば、毎回の稽古が新鮮なものとなり、それでこそLIVE(生)である事の醍醐味を演者も観客も味わえるのではないだろうか。そしてそういった発想で作品と向き合える場所こそが、自分はクリエイティブな創作現場なのではないかと考えている。
台詞は「目的」ではなくて、あくまでも「手段」であり「結果」なのだから。

是非、今日の経験を今後も利用して頂きたく思う。
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by syohousen | 2008-05-15 23:03 | レポート(スタッフ参加企画)

5/14(水)『光と光の中』 稽古7日目

5/14(水)18:00~21:30 天候:雨のち曇り

【本日のメニュー】
●身体のロック外し
●2人組ストレッチ(言葉なし、呼吸合わせて)
●意識のポイント(歩いている時の意識しているポイントをシェアし合い、それぞれを体感してみる)
●ローテーションゲーム①(手の届く程度の距離で向き合って)
●ローテーションゲーム②(お互いの気持ちのよい位置を探り、見ている側の印象をシェアし合ってみる)

【本日のレポート】
本日からは、より実践的でお芝居創りに繋がるようなメニューを中心に組んでゆこうかと考えている。
本日行ったのは、

◆自分以外の人間が身体のどこに意識を持って歩いているのかを模倣し体感してみる事で、自らの身体のストックを増やしてみようという主旨のメニュー
◆簡単なルールのゲームに少しずつ負荷を加えてゆき、芝居における台詞や段取りとの向き合い方を探ってみるメニュー


外側から稽古を見ていて感じたのが、台本と対峙しキャスティングが決定した途端に各々のお芝居の中に「予測」が混じり始めてしまっている事(もちろん、人によってその程度の差はありますが)。
これまでの役が決まるまでの読みの時は、目の前の状況に対してビビットに反応できていたのに、役が決まった事で自分の役や芝居全体についての流れを考え始めてしまっているように感じる。要は、芝居が逆算になってしまっているのだ。
これは自分の役者としての考え方なのだが、「次の台詞がこうだから、ここは少し抑えて」とか「ここで動きたいんだけど、そうすると全体の流れを止めてしまうから自重しよう」などという事は役者の考えるべき事なのだろうか?といつも思ってしまう。

そもそも、「作品全体の流れ」というものが自分にはよく分からなくて、それは何を基準にして測るものなのだろうか?台本?
しかし台本を読んで受け取れるものはあくまでも二次元の情報でしかない。
そして稽古場は台本の説明方法の模索の場ではないし、役者は台本の説明係ではない。
それは決してクリエイティブな発想とは言えない。

そもそも、人と人が関わりあう事で物語が生まれるのであって、物語の成立のために人と人が関わりあう訳ではないのだ。
そう考えたならば、物語の成立のために役者が我慢をしてしまう事(言い換えるならば嘘をつく事)は本末転倒だ。
役者は、それを決して忘れてはいけないと思う。

まずは己の役としての衝動に従ってみて、そこで生まれた不都合を一つひとつ解消してゆく事が稽古場なのではないだろうか。
稽古場を、決して段取り決めの場にして欲しくはない。

物語の成立を考えるのは演出の都合である。
役者はとにかく役の都合を優先すべきだ。
でなければ、譲り合いによる妥協の産物しか生まれないと思う。



、、、本日行なったメニューの解説ができませんでした(苦笑)
もし今後機会がありましたならその時に書かせて頂きます。
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by syohousen | 2008-05-15 15:23 | レポート(スタッフ参加企画)

5/12(月)『光と光の中』 稽古6日目

5/12(月)18:00~21:30 天候:曇り

【本日のメニュー】
●震源地ゲーム
●信頼(後ろに倒れ、4人で支えるバージョン)
●同調歩き(1人→5人)
●声のボーリング①(向き合った状態で)
●声のボーリング②(後ろ向きの人を振り向かせる)

【本日のレポート】
今日、自分自身でもどうしても今ひとつ集中しきれない感覚だった。
これは指導者として非常に恥ずかしい話ではあるが、司令塔である人間がこのような状態である時に難度の高いメニューを行うのは危険を伴う可能性があるため、本日は比較的危険の少ないメニューを中心に組んでみた(ただし『信頼』だけはどうしても組み込みたかったため、最もシンプルで危険の少ないバージョンを選んだ)。

自らの状態に合わせて危険の少ない手段を選んだのは悪い事ではないし仕方のない事ではあるのだが、だからといって自分の調整不足の肯定は決してできるはずがない。
己の身を省みる事のできない人間が他者を見るなどという事は思い上がり以外の何者でもない。
それがたとえスケジュールの問題で引き起こされたものだとしても、そのスケジュール自体が昨日今日に決まった事でもない訳で、対策なり準備はいくらでもできた。にも関わらずそれを怠ったのはあきらかに自分の心得不足だ。
これは猛省し、今後は改めてゆかねばならない事だと思う。

さて、座組の状況はというと、稽古開始直後の空気の軽さは未だに残っているものの、アップのメニューをこなしているうちに適度な緊張感を持ったよい空気が生まれるようになってきた。
役者さん各人の集中具合も、入れ込み過ぎず薄過ぎずの非常によい状態に持ってゆけるようになってきた。

が、まだそれが台本稽古の方には反映されていないように感じる。
これは当然、自分の導き方に問題があるのだが、、、見たところアップと稽古の間には、まだまだ大きな溝があるように思えてしまうのだ。

今後の課題としては、如何にしてアップ時に行った事を稽古へと繋げてゆくのかだ。
その回路の結び付け方に気付いてもらえるような働き掛けを行ってゆこうと思う。
また、ちょうど昨日にキャストも決まったのだから、少しずつ実践的な内容へと移行してゆこうかと思う。
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by syohousen | 2008-05-12 22:43 | レポート(スタッフ参加企画)

5/11(日)『光と光の中』 稽古5日目

5/11(日)15:00~21:30 天候:雨のち曇り

【本日のメニュー】
●身体のロック外し(雑談混じりで)
●2人組ストレッチ(手を離さず言葉はなし)
●肩胛骨ほぐし
●震源地ゲーム
●信頼(倒れる方向はランダムで、目は開けたまま)
●同調歩き(1人→5人)
●いざない

【本日のレポート】
本日は「相手を見る」という点を重視したメニューを組んだ。

とにかく相手をよく観察する。
そしてその中から感じた事を素直に発してみる。

その循環を生み出す事ができれば、お芝居を創る上で大きな助けになるはずだ。
また、昨日のレポートでも挙げた反省点を無駄にしないためにも、とにかく五感+αを駆使して今目の前に存在している身体を感じる事に集中できる環境作りを心掛けてみた。

が、ここで自分の性格というか、他者に向き合う際の特性が少々枷となってしまったようで(これは自分の特性を生かしきれていないために生まれた枷であり、その特性そのものが悪いという意味ではないのだが)、なかなか自分の意図する方向へと全体の空気が転がっていかなかった。
それはどういった状態かというと、アップの中盤までは昨日と同様に「軽さ」の目立つ空気が稽古場を支配していたのだが、その状況を修正するための有効な手だてがなかなか見い出せなかったのだ。

しかしここで助かったのが、役者さんの中にもその空気を感じていた方がいて、自分からの働き掛けに対してさりげなく助け舟を出して下さった事。
お陰でかなり稽古場の空気が引き締まる事ができた。

考えてみれば、今突き当たっていた問題を自分一人で解決しようとしていたように思う。
しかし、こうしてフォローをして下さる方もいるのだから、役者さんに甘えられる部分は甘えてもよいのだという事を実感した。
もちろんそれは楽をするための甘えではなく、状況を好転させるための選択としての甘えという意味でだ。

またひとつ、大きな頂きものを持ち帰る事ができた。
そして座組の方も今日の経験によって、チームとしてもう一段上の段階に上がれたのではないだろうか。

座組内で「貰う、与える」の循環が少しずつ、しかし確実に生まれてきているように感じる。
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by syohousen | 2008-05-11 22:06 | レポート(スタッフ参加企画)

5/10(土)『光と光の中』 稽古4日目

5/10(土)13:00~17:00 天候:雨

【本日のメニュー】
●身体のロック外し
●空間認識(歩く→立ち止まり、目を瞑ってものの位置当て)
●2人組マッサージ(言葉はなし、呼吸合わせる事に集中)
●わたし、あなた
●同調歩き(1人→5人)
●数字数え(50までを被らずに)
●コンサート

【本日のレポート】
本日テーマとしていた事は「呼吸の同調」。
とにかく自分だけで何かを行うのではなく、己と他者との間に生まれるものを大事にしながら、、、かといって作為的に相手に委ねようと気負う事もなく流れに乗れるような身体の状態作りを重視したメニューを組んでみた。

…が、今日はこれまでに比べて座組全体の集中の質があきらかに違ったように感じた。それを具体的に言葉にするならば、「軽い」感じ。
もしかすると、稽古も回を重ね、この空間(人も含む)に対しての「慣れ」のようなものが生まれてきたのかもしれない。
別にこの「慣れる」事自体にはネガティブな面ばかりではないので必ずしも悪いとは言えないのだが、ただひとつ、「油断」が生じてしまう事だけには気を付けなければならない。
油断は、怪我を引き起こす大きな要因のひとつだからだ。

おそらく、相手の事を分かり始めている事で、今自分が行っているアプローチに対しどの程度のレスポンスが返ってくるのか、その予測ができるようになってきたのだろう。
が、しかし、人間の身体は日々変化しており、前回がこうであったから今回も同じだろうという発想は、実は非常に危険である。もしかしたら、前回とても体調がよかったのだが今回は逆に最悪の状態である事も可能性としては考えられる訳だ。
だからこそ、毎回新鮮な心持ちで“今まさに目の前に存在している身体”に対し全神経を集中させて向き合う事が重要になってくる。

そこの確認作業を徹底させる場を毎回設ける事は、立場上自分にとっては最も最優先すべき義務である。にも関わらず、これまではそれが十分であったとは言えなかった。

幸いな事にこれまでは何事もなく済んでいたのだが、本当にこの段階で気付けてよかった。明日から…というよりも今の今から改めてゆこうと思う。
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by syohousen | 2008-05-10 21:54 | レポート(スタッフ参加企画)