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自然の産物

自分は、養老孟司氏の著書をよく読むのですが、以前読んだ『養老孟司の逆さメガネ』という著作の中で、「昔は子どもは『授かりもの』だったんですよ。いまの親は、授かったなんて思いもよらない。産む産まないは親の勝手なんていってます。それなら子どもなんて、まさに『意識の産物』じゃないですか。親がいろいろ自分の都合を『考えて』産んでいるんですから」と述べておりました。
ここでの“自分の都合”というのは“社会の都合”とも言い変える事ができると思います。

子供は生まれてくる事を自分の意思で選べない…しかし、親だって産む事を100%コントロールできる訳ではないのです。どんな子供が生まれてくるか分からなければ、今後どう成長するのかだって分かりません。
一番怖いのは、親が、というよりも社会が、「こうすればこんな子供が生まれ、こうすればこういう大人になる」などというありもしない幻想を抱いてしまう事なのではなかろうかと思います。
そして、その通りにいかないとすぐに見切る。

しかし、子供というものは養老氏の言葉を借りれば『自然の産物』なんです。そして、自然というものは人間の力では御しきれないものです。にも関わらず御しきれるなどという思い上がりを持ってしまっている事が、ここ数年の天災に対する備えの甘さに繋がってるのではないでしょうか。地震にしろ台風にしろ、そして温暖化にしろ。
子供に対しても同様の事が言える訳で、そういった思い上がりをいつまでも続けているとそのうち子供にも痛い目にあわされる事になる気がします。しかもそれは何年も後に。気付いた時にはもう手の施しようのない致命的な事態になっているのではないでしょうか…。
「情報化社会というものは、人間の身体そのものが記号・情報となっている事」と養老氏は述べておりましたが、これはその象徴的現象ではないかと思います。「こうすれば、こうなる」という事が通じるのは、人工物に対してのみです。それは自らに対してもそうです。

思うようにいかないのが人生だ。だったら挫折も当たり前。
もしかすると、無念こそが生きてる証なのかもしれない。

そう考えてみると、もっと他者に対しても、自らに対しても柔らかくなれる気がします。
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by syohousen | 2007-12-17 12:17 | つれづれと

向き合うべきもの

なんというか、最近WS等を行なっていて参加者の方に強く感じるのは「誰のためにここにいるのか?」という事です。 とりあえず、どんな状況・内容であっても、参加するからには自らの意思で、そして自分なりの方法で自信を持って物事に取り組んで欲しいのです。

WSでの講師(本来「「ファシリテーター」と呼ぶべきなのですが、説明すると長くなってしまうため敢えてこう呼びます。意味を知りたければリンク先へ)は、参加者各人が自らの現状に向き合えるよう様々なメニューを用い、「気付き」の誘導をしているだけの存在です。

自分も講師を行なっている際は偉そうに色々理屈こねて説明していますが、はっきり言ってそれが100%正しい事なのだとは思っておりませんし、そもそも正解があるとも思っておりません。ただその瞬間に感じた事(相手の現状)のみを相手に伝えているだけです。
しかしその「感じた事」に対しては誠実に向き合うよう努力をしてます。何故なら、向き合うからこそ間違っていた時にどこがどう間違っていたかが実感をもって分かるからです。

…何が言いたいかというと、「向き合う対象は他者ではなく、自分の感覚なのだ」という事です。

どうも気になるのです。何かやる度に講師の顔をちらちらと見る人の多さに。
たしかに不安なのは分かります。が、先も申し上げたようにWS時の講師というのは参加者に答えを提供するための存在ではありません。よって、その不安を解消できるのはやはり自分しかいないのです。自分の身体が実感する事でしか、発見はありえません。他者をあてにしたような発想では、その肝心な「実感」というものを放棄しているという事になります。

間違えればいいんです。どんどんと。
そしてそこから思いもしなかった自分を発見してゆけばよいのです。
そうしてゆくうちに、いつしか自分の身体と対話する事が楽しくなってくるはずです。

それは決して難しい話ではないと思います。
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by syohousen | 2007-12-08 21:25 | つれづれと