<   2007年 07月 ( 1 )   > この月の画像一覧

指導するということへの私見

「指導」というものを「教えてやる事」と考えている指導者があまりに多い気がする。
いや、たしかに「教える」という要素は指導という行為においてかなり大きくウェイトを占めているとは思います。
しかし、果たしてそこに上下関係は必要なのでしょうか?
たしかに指導する側はされる側に比べてその分野においては一日の長がありますが、だからといってそれが必ずしも人間としての優劣には繋がらないはずです。

自分の考えでは、指導者は「気付き」のお手伝いをするだけの存在なのではないかと思っております。「指導」という言葉自体「指して導く」と書きますし、自らの思想を押し付ける意味合いでは決してないはずです。

では、具体的にどういった事に重点をおいて指導をしているのか。
自分の場合は「不安にさせない」という一点のみをただ重視しております。

身体や声というものは理屈だけ理解していても実際に体感してみなければ絶対に身に付かないものであり、皮膚感覚でしか理解できないものがほとんどです。しかし、皮膚感覚というものはその時の体調や精神状態によって感じ方が変わってしまうとても不安定なものです。
「不安」という感情は、その不安定な状態を何よりも嫌う性質を持っているために、不安になればなるほどその人の心は安心を求め「理屈」という揺るぎのないところへ落ち着こうとしてしまいます。

理屈にとらわれている状態というのは、言ってみれば流れが堰き止められた水のようなものといえます。何故なら理屈というものは本来、起こった現象を説明するために後から分析して作られたものなのですから、リアルタイムで感じている生の感覚とは決定的に違ってきます。しかもそれが普遍的に、万人に通じるように説明されているものなのですから、当人の感覚からはおよそかけ離れたものであるのではないかと思うのです。

ちなみに、水は止まり続けていると腐ってしまいます。
思考や感覚も同じ事で、感じる事を怠ってい続ければ次第に感覚は鈍ってきてしまいます。
そんな状態ではどんなに有意義な指導を受けたとしても身にはなりません。

以上の理由から、自分は指導の際は「不安」にさせない事を心がけているのです。

技術云々はその人その人の考え方や感じ方で個人差が出てくるのは当然の事ですし、一つひとつの結果についてはそこまでこだわる必要はないと思います。指導者側がそこにこだわれば、受け手も結果を求めるようになります。
うまくいっている時にはそれでもいいのかもしれませんが、うまくいかなくなった時にも結果しか求めないような思考であれば、その悪い状態から抜け出す事は非常に困難であると思います。

結果ばかりを求めたり闇雲に不安を煽ったりする事が受け手にどれだけの悪影響を与えるのかを、指導する人間は常に心がけておくべきではないのかと考えて自分はいつも指導している訳です。
それはつまり、常に受講者の立場に立って指導を考えているという事であり、だからこそ「教えてやっている」という発想にはなりようがないのだと思います。
[PR]
by syohousen | 2007-07-02 14:12 | 指導について