カテゴリ:ものの見方・捉え方について( 235 )

興味があるのは真実なのか?

なんか、『蛙昇天』を思い出してしまう。

興味があるのは真実ではなく、
自分にとって都合のいい解釈だけなんだろうな。

たぶんそれは自分も同じなのかもだけど、
そう考えてしまっているかどうかには慎重になりたい。
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by syohousen | 2017-08-29 10:38 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

本当に、遠い存在なのだろうか?

世の中の仕組みは、多くの人間にとって
日々の生活を送り易い形に
つくられるものであるのは自然なことであって、
それ自体は悪いことではないと思う。

しかし、だからといって多くの人間にとっての住みよい生活が、
絶対的な正義ではないことを忘れてはならないと思う。

そもそも、多数であるか少数であるかなんてものは
社会環境や社会の価値基準が変わればあっという間にひっくり返るし、
自分自身を取り巻く状況だって何かしらの事故などに巻き込まれれば
簡単に少数の人間の側に回ってしまうことだってある。

それくらい、自分達が世の中を生きる上で
当たり前だと思っていることは不確かなものでしかなくて、
だからこそ、あらゆる境遇の人について想いを馳せることは大事だし、
あらゆる人が生き易い社会のことを考えることが重要なことなのではないか。

そしてそれが、社会保障が必要な理由なのだと思う。



目の見える人が多いからこそ、
この社会はこういう色遣いで、こういう空間の使い方なのだし、
公共の場所では文字情報が主な案内手段になっている。

そして、耳が聞こえる人が多いからこそ、
街には音楽が溢れているし、逆に図書館では静かに過ごさねばならず、
学校ではチャイムが合図として使用されている。

他の事柄に関しても、
多くの人にとって過ごし易いように世の中はつくられている。

が、生まれてくる人間が100%
そういった多数の側の人間として生まれることはできないし
仮に多数側の人間になれたからといって、
人は年を取れば目も耳も、他の感覚も衰えてくるものだし、
事故にあって急に失うことだってあるかもしれない。

或いは、自分の子どもが
何かしらの機能不全を抱えて生まれてくるかもしれない。

それくらい、社会的なマイノリティと呼ばれる人というのは
特別な存在ではなく、身近な存在なのです。

「自分は多数の側の人間で、マイノリティの人間とは無関係なんだ」
という思い込みをまずは疑ってかかってみること、
それが、これからの世の中にはとても大切なことなのではないか、と思うし、
あらゆる境遇の人の苦労や頑張りに想いを馳せられる、
そんな発想が当たり前になる社会への第一歩なのではないかなぁ、と思います。
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by syohousen | 2016-07-27 18:08 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

まとめないままの方が、

まとめないままの方が、よい時もある。

まとめてしまうことで零れ落ちてしまうものだって、あるからだ。

何でもかんでもまとめようとばかりするのではなく、
時にはバラバラなままで向き合うことも、必要なことだと思う。
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by syohousen | 2016-07-21 16:53 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

選択肢を狭めているのは、

いい悪いでとらえるから、
選択肢が限られてしまってしんどくなる。


ただ起こったことをありのままに、
ひとつの現象としてとらえてみることが、
心の余裕にも繋がってゆくんじゃないかなと、そんな風に思う。


選択肢を狭めているのは、
結局のところ、自分自身だと、
そういうことなんじゃないかな。
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by syohousen | 2012-12-29 22:34 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

恥か、どうか、

知っていることよりも知らないことの方が
圧倒的に世の中には多いんだから、
別に知らないことそのものは恥じゃないよね。


知らないことを知ったかぶりして誤魔化したり、
知らないことを知らないままにしておくことこそが、恥だよ。



自分に対しての、戒めでもある、メモ。
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by syohousen | 2012-12-28 23:59 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

覚えるだけじゃ、

覚えることと、学ぶことって違うよね。

そこのところの認識を、間違えないよう気を付けないとね。
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by syohousen | 2012-12-04 11:55 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

評価とか前提とか、

いい悪いで評価してしまうと、
そういう見方しかできなくなってしまうことって多い。

でも、そういう評価を脇へ置いて、
ひとつの現象として捉えてみたり、
「そういうもの」としてまず受け容れてみたりすることで
その見え方が大きく拡がったり、
選択肢が増えたりすることも同時に多かったりする。


評価とか前提とか、そういうものとどれだけ冷静に距離を取れるか、
それは結構大事なことなんだと思う、な。
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by syohousen | 2012-12-02 23:38 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

本当に「感動=泣く」なのか?

どうも、「感動=泣く」という風潮が好かない。

感動って、もっともっと多様であるはずなのに。

そして、泣く、ということが、
なんだかすごく美しいことのように考えられているけれども、
果たしてそんなに無条件に美徳とされるようなものなんだろうか。


「この作品は泣ける!」というだけで問答無用で名作とされてしまったり、
「いい作品だったねー泣いちゃったよー」などと
泣けることが素晴らしいというような理屈に、
ちょっと無防備過ぎるんじゃないかなと思ってしまう。

泣けなくたって素晴らしい作品は沢山あるし、
泣けることとは違ったベクトルで
心を大きく揺り動かされるような作品も沢山あるはず。


ちょっと、感動というものを
変に枠にはめてしまわないでいいんじゃないかなって、思う。

訳わかんなくなってわあああぁ、、みたいになることだって立派な感動だし、
あまりの衝撃に、金縛り状態になってしまうのだって感動であるはずなんだ。

もう少し、多様なものさしと形式が、
当たり前のように共存できる環境になれたらなと、
そしたらきっと、より豊かな芸術体験などが行えてくるんじゃないか。


わかり易さを追究するあまり、世の多くの作品だけでなく、
自分自身の心の動きですらも消費の対象とさせられてしまっている
この今の環境、なんだかとっても怖いなって思う。

だからこそ、少なくとも自分は、己の心の動きには敏感になってゆきたい。

でないと、もったいなさ過ぎるよ。
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by syohousen | 2012-11-14 23:48 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

言葉は言葉

「ものは言いよう」的発想の怖いところは、
あまりにもその言い方にばかり固執してしまうことで
単なる「言葉遊び」に終始してしまっていることに
気付かなくなってしまうことがあるということだ。


やはり言葉は行動と密接に関わっているものなのだという
意識を忘れてしまっては決してならないのだと思う。


言い方を変えてみたところで、実際の現実の問題を解決できた訳ではない。

ただ、言葉を変えてみることで、
これまでに気付くことのできなかった視点や、
己の中の認識が変わり視野が拡がってゆく
きっかけに繋がることはあるかもしれない。


言葉は万能でもないし、かといってないがしろにしてしまうのも違うと思う。

きっと大事なのは、言葉は言葉、という距離感なのだという気がする。
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by syohousen | 2012-11-13 06:07 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)

「本当のよさを引き出してやる」とかって、

「俺がこいつの本当のよさを引き出してやる」
などと考えている人ほど、その人に対して先入観というフィルターを
色濃く通して見ているような気がする。


別にその人はその人であって本当もくそもないだろうに、
そういう風に「他の人には見えていない(はずの)魅力」に
自分“だけ”が“気付いている”と思ってしまっていたいだけなんだと思うよ。

目の前の存在や、「今、ここ」ではないところを見ている、という点では、
「自分さがし」と似たようなメンタリティなのかなぁとか、そんな風に思ってしまう。

それだけに、自分も気を付けたい。
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by syohousen | 2012-11-10 08:13 | ものの見方・捉え方について | Comments(0)