カテゴリ:指導について( 26 )

「変えよう」でなく、

指導において大事なのは相手を「変えよう」とすることではなく
「変わろう」と思える環境を用意できるかどうかなのかなぁ、と、思う。
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by syohousen | 2012-11-21 23:32 | 指導について

現実逃避の場ではない

ワークショップの場でしか力を発揮できないような人、
そんな人ばかり生み出すワークショップは正直いらないよなぁ。

ワークショップの場は現実逃避の場ではないんだから。


ほんと、忘れちゃならないことだよなという自戒の念も含めて、、、
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by syohousen | 2012-09-25 10:49 | 指導について

「余白」

ふと気付いたのだけれども、
ここ最近、自分は「どうなって欲しいのか」を基準にして
WSなどの進行やエクササイズのチョイスを行っているような気がする。

でもそれって、指導ではなくて誘導だよな。


たぶん、それがこのところの自分の指導者としての
停滞感を生んでいる原因になっているのかもしれない。


以前は「こんなことしてみたらどうなるんだろうか」ってところで
わくわくしながら一つひとつのエクササイズを考えていたし、
「この人にこれやって欲しい!」なんてな具合に、
お前が一番楽しんでるんじゃねぇかと言われてしまうくらいの
軽やかな姿勢で指導に臨んでいたはず。

今はもうなんというか、理屈っぽくて少々めんどくさい感じの
重たいスタンスで臨んでいるのは自分でもよくわかる。

こちらの意図で塗り固めてしまったものなんか、
やっていても楽しくないだろうし、
そもそも、そんなものから得られたものなんて、
最初に考えられた理屈の範疇内に収まってしまって終わりだろう。

そんなものは、指導でもなんでもない。


元々責任感が強過ぎるくらいに強い人間なのだから
そこに更に重たい責任を自らで上乗せするんではなく、
その自らの責任感はちゃんと信じて、
直感に任せてみるようなスタンスを意識してみてはどうか。

もしそれで不安だというのならば、
然るべき入念な準備を徹底して行えばいいだけのこと。


とにかく、参加者に委ねる「余白」の部分を、
強く意識して指導の場には臨むべきだ。

参加者の、自ら学ぶチャンスを奪ってしまわないためにも。

そのことだけは、今後決して忘れずにいたい。
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by syohousen | 2012-07-14 21:18 | 指導について

色々な世界の方と接してみての実感として、

最近、色々な世界のWSを開催している方々と接する機会が増えたのだけれども、
その中で強く感じているのが物腰が柔らかくて話し易い方の多さだったりする。


そこから思うに、WSのファシリテーターってその分野についての
スペシャリストというよりも(もちろんそうである方に越したことはないけど)、
色んな世界に生きている人達のそれぞれの価値観をありのまましっかりと受け止め、
発見を引き出せるかどうかの方が重要なんじゃないか。

だからたぶん、参加者が自分のペースで考えられるように待てる我慢強さと
「この人だと自分の考えを話し易いな」っていう人当たりの柔らかさは
ファシリテーターとして大切な要素なのだと思う。


「この人だったら間違ったことを言っても早合点しないし、
 ちゃんと軌道修正もしてくれるような気がする」
そんな安心感みたいなものを自分も備えられるようになりたい。
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by syohousen | 2011-03-02 18:57 | 指導について

技に溺れぬよう、

よく、指導の場で知ってか知らずか
コールド・リーディング(知らない方はこちらへ)の
手法を用いる方が多いのだけれども(まあ、それが重要だからなのだろうが)、
このやり方は指導において非常に有効な部分と危険な部分が
混在しているやり方なので、細心の注意を払って取り扱ってゆかないと
後で取り返しのつかないようなことにも
繋がりかねないのではないかという気がします。


相手に自らを信じてもらうこと、
それはたしかに指導を行う上での第一歩目として
非常に重要な要素ではあるとたしかに思います。

が、それが過剰になってきてしまうと
相手は自分の意見を何でも正しいものとして
とらえてしまうことにも繋がりかねず、
それは指導を行う人間にとっては非常に危ういことでもあります。


コールド・リーディングのような(受け手として)不可思議な驚きは
指導における導入の段階で止めておかないと、相手は自らで考えることを止め、
全てをこちらの意見の通りに思考するようにもなってしまいかねません。

「何故そんなにも分かられてしまうのか分からない」という驚きは
“恐怖”の感情と非常に近しい関係にあるため、
心情的にはより安心できる方へと思考が流れてしまい易いからです。

しかしそれは指導の本来の目的に反することのはずです。


別にこの手法が悪いと言っているのではありません。

実際、自分も自らの指導を追究してゆくうちに
自然とこの手法というか考え方が身に付いてきた訳ですし、
今現在もこの手法を指導の現場では結構用いております。

しかし、それは初めての人を相手にする時だけで、
あとはもう、どうしても必要な状況下でしか自分は使いません
(まあ、その技術を応用して取り入れてみたりは結構しているけれど)。

また、今後の指導に支障のない範囲で
その種明かしも極力行うようにしてもいて、
ちゃんと根拠があるから言い当てられるんだという、
決して超能力的な能力で以て言い当てた訳じゃないんだということを
理解してもらえるように心掛けてもいたりします。


でないと、指導における適度な距離感が保てない気がするのです。


たしかに恐怖心を利用すれば
簡単にこちらを信じ込ませることはできるでしょう。

そして己のことを信じ込んだ人が
自らの思い通りになってくれるのは、
なかなか悪い気分のしないものでもあります。

しかし「信じてもらう」ということは
あくまでも指導におけるひとつの手段でしかないし、
そもそも恐怖心を煽って無理矢理作り出した信頼なんてものは
それ以上の恐怖と出会えば簡単に破綻してしまうものでもあると思います。


だから、必要なのはもっと深いところでの信頼関係であり、
それはやはり地道な努力によってしか得られないのだと思います。


技に溺れぬよう、常に自らを律して指導には臨んでゆきたいなと。

心からそう思います。
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by syohousen | 2011-01-22 14:40 | 指導について

「答え」

自分は人に指導を行う際に、予め何かしらの答えを持った上で臨むことはほとんどない。

だから、エクササイズ中にこちらへ答えを求められても、
残念ながらその期待には応えてあげることはできない。

まあ、答えを持ってないんだから、当然である。


では、何を基準にして一つひとつのエクササイズを選択しているのかといえば、
「このエクササイズにこの人が挑んだらどうなるだろうか」という興味だけだったりする。

もちろん個々の当面の課題などを見極めつつ
この人にとってどのようなアプローチが最も有効だろうか
という方向付けは明確に行ってはいる訳だが。

しかし、その結果についてはやってみなければ分からない。

だから、答えなんか一切持ってはいないし、
仮に答えなんか持っていたら相手を自分の望む姿に
当てはめようとする発想に繋がってしまうんじゃないかと思う。


結果についての予測がつかないことを相手に仕掛けてみて、
その結果を受け、どうこれからに繋げてゆくかを共に考えてゆく、、、

これが今の自分の基本的な指導者としてのスタンスである。


まあ、それが絶対であるとは思ってはいないので、
他の人には他の人のやり方というものがあるだろうと思うし、
また、自分だってこれからまた考え方が変わってゆくかもしれないが、
この「予め答えを用意しない」という発想は、
演劇指導においては非常に重要なことなんじゃないかと思う。
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by syohousen | 2010-11-11 17:18 | 指導について

演出と演技指導

最近、周りの人の話を聞いていると、
演出と演技指導を混同している人って
意外と多いのかもなという気がしてきた。


自らの作品に必要な演技の質を求めることと、
いわゆる演技指導とは全く似て非なるもののはず。

にも関わらず、俳優の演技の基礎的な部分の訂正に終始して
自分が演出として俳優に何を求めているのかを伝えられないのであれば、
それはもう、創作ではなく単なる俳優訓練の場でしかない。

だいたい、そんなことは個々の俳優が
各々でやっておくべきことであって、
演出がそんなところにまで手を伸ばすべきことではないはずだ。


稽古場では、個人ではできないことや
演出家が思い描いている作品のビジョンを具現化させるため、
どう現実と刷り合わせてゆくべきかを試す場でなければ、
決してクリエイティブな現場にはなり得ないんじゃないかと思う。


基礎ができている俳優に何も言えない演出家というのは、
少し己のやり方について省みてみるといいかもしれない。

きっと、それが演技指導と演出を
混同してしまっているかどうかの物差しとなるので。


もし演出家として明確な作品のビジョンがあるならば、
基礎ができている俳優との稽古は
これ以上ないにクリエイティブな時間となるはず。

逆に何も言えないのであれば、
それは演出ではなく、
演技指導しか考えていなかったことの証明になるのではないかと。
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by syohousen | 2010-11-02 15:30 | 指導について

染まってほしくはないなと、

これはいつも考えてしまうことなのだけれども、
自分の指導を受けて下さっている方達には
横山のことを信じてほしくはあるけれども、
横山の思想に染まってほしくはないなと考えております。


他者の思想に染まってしまえば、
決してその人を越えることはできません。

どんなにがんばったところで、人は他者にはなれませんからね。


あくまでも一つの選択肢として指導者としての自分は存在している訳です。

だからこそ、ちゃんと自らの判断で、自らの考えは選び取ってほしい。

やはり己の限界を、自らの手で定めてほしくはないですから。


もちろん、そうしてもらえるようなアプローチは
自分も常に意識して指導へと臨んでいます。

しかし、どんなに手を尽くしても、
最終的な決断は、自分自身でしかできません。


是非、そのところをしっかりと踏まえてほしいなと思います。
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by syohousen | 2010-10-24 22:58 | 指導について

ふとした時に出た言葉によって、

結構前の寺子屋の時の話なのだが、ふとした時に出た
「筋肉痛ってのは、今の自分に足りないものを教えてくれるんだ」という言葉、
よくよく考えてみても、えらく尤もな話だなと
自分の言った言葉にも関わらず感じてしまった。

これも人に自分の考えを伝えようとした結果のことである。

なるほど指導というものは、
結果的に己の学びにも繋がってくるものなのだなとつくづく思う。
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by syohousen | 2010-10-16 22:57 | 指導について

「駄目」だけか、「いい」と「駄目」の両方か、

人に何かを教える際に、
「それじゃ駄目」だけを伝えるのと
「いい」と「駄目」の両方を伝えるのでは、
教えられる側の成長具合には大きく差が出てくると思う。

また、「駄目」だけを伝えるならともかく、
「いい」を伝えるとなると、
あまり軽はずみなことは言えなくなってくる。

何故ならば、その「いい」という言葉の通りにやっていたのに
何か不都合が生じたのだとすれば、
その責任は教えた人間の方が重くなってくるからだ。


思うに、人にものを教えるということは、
教えられた当人以上に今後の経過に責任を負えないとならないのではないか。


たしかに、

教えられる側の行動の結果を待ち、
「それじゃ駄目」だけを言い、
何か質問がきても「それくらい自分で考えろ」と答え、
しかし決して相手の行動を肯定することはしない、、、

こういうやり方を採っていれば物凄く楽だと思う。
特に「職場の上司」のように立場が上の人間であれば尚更そうだ。


が、そんなやり方でいるうちは、
どんなに時間をかけても、決して人は育っていかないと思う。

なにせ教えられている当人の中で成功体験が重なってゆかず、
失敗の体験ばかりが積み重なってゆくのだから、
どうしても「失敗しないように」という消極的な発想に到ってしまう。

せめて何回に一回かでもいいから
「それでいい」という肯定をいれたなら、
その成功体験を元にして何がよくて何が駄目なのかを
立体的に考えることができるし、
当人の中でも前へ進めている実感が湧いてくるため、
自信が生まれて成長にも繋がってくるはずなのだが、、、


ただ、この「肯定と否定のバランス」さえ気を付けていれば、
「自分で考えさせる」という指導方法自体は悪いことではないはず。

むしろ「褒めるだけ」のやり方なんかよりもずっと効果的だ。

しかし、そういう否定からの視点でしか物事を捉えられない人には
自分自身しか見えていない人が多いのか、
なかなかそういう「ポジティブな循環」というものに
気付けない人が多いような気がするのが正直なところではある、、、


自らを安全なところに置いていては、決して人はついてこない。
責任を負えない人間の周囲からは、循環も生まれてこない。

少なくとも自分は、そこの部分に無自覚にならないよう気を付けてゆきたい。
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by syohousen | 2010-09-18 16:52 | 指導について