カテゴリ:レポート(勉強会)( 60 )

10/24(日) 【第5回】『土路生さんの戯曲を読む会』レポ

10/24(日)16:00~20:30
【第5回】『土路生さんの戯曲を読む会』
@落合第二地域センター・調理室

◆使用戯曲◆
●作:土路生真隆『tree songs』

【ふりかえり】
早5回目となる『土路生さんの戯曲を読む会』。
今回5回目にして、この会でなければやれないようなことができたのではないかと実感した。

というのも、今回の土路生さんの戯曲は物語性で描かれた作品というよりかは、言葉の繰り返しなどを多用してそこから生まれてくる音やリズムを感じてもらうアンサンブルを大切にした戯曲だったからだ。
これはもう、一人で書いて一人で読んでみて、、、という作業では無理だとは言わないが、なかなかに推敲の難しい戯曲であると思うので、それだけにこうして多くの人が集まって声に出して読んでもらう場というのは非常に役立つ場であったのではないかと思う。
やはり脳内でだけで音を再生するより実際に人の声で読まれたものを耳で聴くことの方が、発見も多いはずだからだ。

そうか、と思った。
こういう方向性の戯曲の時にこそ、このような場はより生きてくるのだろうなと。
それはつまり、こういう戯曲を描く劇作家にとっては、こういう場を得られるかどうかはかなり重要な問題になってくるのかもしれない。

またひとつ、この会の活かし方、必要としているであろう存在が確実に存在しているであろうことに気付けた気がする。
それによって、今後またこの会の可能性も拡がってゆくなと、そうも思う。
だからこそ、今後の身の振り方のようなものはしっかりと考えてゆかねばなと。

実はもう、そのために動き始めてはいて、近いうちにそのお知らせも行ってゆくつもりだ。
その際にはこちらのブログでもお知らせをするつもりなので、ご確認頂ければと。
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by syohousen | 2012-10-26 11:36 | レポート(勉強会) | Comments(0)

5/10(木) 【第4回】『土路生さんの戯曲を読む会』レポ

5/10(木)13:00~19:15
【第4回】『土路生さんの戯曲を読む会』
@落合第二地域センター・調理室

◆使用戯曲◆
●原作:井伏鱒二・作:土路生真隆『山椒魚』

【ふりかえり】
4回目の開催となる『土路生さんの戯曲を読む会』。

今回の使用戯曲は、10年前に横山も出演していた井伏鱒二原作の『山椒魚』。
自分にとってもこの戯曲は思い入れの深い作品で、正直に言えばこの戯曲によってその後の演劇人生を変えられたと言っても過言ではないくらいに大きな影響を与えられた戯曲であった。

まあ、これは個人的な事情ではあるのだが、そんな経緯があった上で実際に読んでみて自分が実感したことは、やはり10年も経つと同じ役でもここまで感覚が違うものか、という自らの心身の変化であった。
かつては何となくしか実感的な部分では理解ができておらず想像によって何とか補完していたことが、今読んでみることですっと身体の中へ入ってきて素直に声に乗せることができたり、逆に当時は当たり前に出せていたものが今は強く意識しなければ出せなくなっていたりと、経験を重ねてゆけば戯曲に書かれている言葉の消化がスムーズにいったり、より魅力的な芝居ができるようになったり、そんな「俳優としての経験値=演技のクオリティ」というような単純な話ではないことを強く思い知らされた気がする。

それだけに、この作品は必ず近いうちに再演したいなと思った。

当時の自分達にしかできなかったことも沢山あるし、今の自分達が当時の作品よりも高いクオリティの作品を確実に生み出せるかといったらそれは分からない。
しかし、初演の時の作品は当時の自分達にしか創り出せないものであるのと同様に、今の自分達にしか創り出せないものは確実にあるはずで、それをやりたいのだ。
10年という年月を経た上で生じ、今回の会で強く感じた己の変化を活かし、新たな、、、いや、過去の経験がある以上全くの新しい作品とは違うか、、ならば過去の上演を経験し、その後の10年という年月を経験した中で“更新”された『山椒魚』を創り出したいなと、そう強く思っている。


個人的な話を長々と続けてしまったのだが、そう、こういった考えのきっかけを作る場としてもこの会は有効な機能を持つのだなということに気が付いた。

なので「新作」にこだわることもないのかなと、そう思えるようになってきた。
新作でなくとも、過去に上演経験を持つ戯曲を修正・加筆したものを読むでもよいし、それ以前の、再演の道を探るために試し読みを行える場、という機能もあってよいのかなと。

そう考えてみると、だいぶこの会の可能性も拡がってくるような気がするし、9月より再開予定の『読み会』との棲み分けが明確になるため、もしかすると相互によい影響を与え合えるような関係を作り出せるかもしれない。
ちょっとそこら辺について、もう少し詰めて考えてゆくようにしたいなと、そう思う。


この会の全体の話ばかりになって今回の会そのものの話が疎かになってしまったので、最後に今回の会を経て留意しておかねばなと思った点をいくつか挙げておこうかと思う。

・戯曲のチョイスと進行の仕方についてどう兼ね合わせてゆくべきか、ちゃんと練っておくべきだ。そもそも、戯曲を基準にして考えるのか、人数を基準にして考えるのかによって募集の仕方は変わってくる訳で、今回はそこがあやふやであった。だから結果的に後手後手に回ってしまい、戯曲と人数と進行と、それぞれの間にズレが生まれてしまったのだと思う。

・この会の趣旨は何か?場の空気感はあれくらいゆるい感じで全然構わないと思うが(そもそもそこがこの会のよさだとも思うので)、それだけに場を取り仕切る側は明確にこの会の開催意図を持ち、それを芯に抱いていないと単なるなあなあの会になっていってしまう。よって作家との打ち合わせは必須だなと。

・ふりかえりの扱い。もっとうまいやり方があるはず。というか、話題を場の流れに任せ過ぎてしまった。あのゆるさを保ちつつ、うまく話題を引き出すことは可能だと思うし、それは心がけておくべきだ。

こうして挙げてみると、今回は明らかに準備不足の感が拭えないように感じる。
慣れが生まれてきているのかもしれないし、回を重ねたことによって問題点が表出してきたのかもしれない。

いずれにせよ、今すぐに解消させねば後々そのしわ寄せが大きな問題となって押し寄せてくるのだと思う。
よって速やかに問題解消へと向け、動いてゆこうと思う。
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by syohousen | 2012-05-15 12:28 | レポート(勉強会) | Comments(0)

4/13(金) 【第3回】『新作戯曲の試食会』レポ

4/13(金)19:00~21:45
【第3回】『新作戯曲の試食会』
@落合第二地域センター・工作室

◆使用テキスト◆
●作:土路生真隆『惑星さがし』

【ふりかえり】
今回、第3回目の開催にして、参加人数が11名と大きく増えた。
やはり人数が多いと選択肢も増えるし、何より一人ひとりが見せる表情の多様さが単純に楽しい。
また、今回集まって下さった方たちも、それぞれで活躍しているフィールドの違った方々が参加して下さっていたので、「そうきたか!」という思いもしないようなアプローチからの台詞への仕掛けが見られたりして色々新鮮な時間を過ごすことができた。

また、今回は時間の都合で戯曲の内容について色々と意見交換する時間をこの会の中では設けることができなかったのだが、それはそれで悪くはない進行ではあったのかなぁとも感じることができた。
さすがに毎回何も言わずにただ読むだけで終わらせてしまうのはあまりよろしいことではないのかもしれないのだけれども、しかしもしかすると、数回に1回はこうしてただただ黙々と読むことを繰り返すような場を設けてみてもいいのかなという気がした。

何故そのようなことを感じたのかといえば、この会が終わった後に参加者みんなで店に入り交流がてら食事をしたのだけれども、その時に先の会の中でそれぞれが感じていたことを、誰が促すでもなく自然と話し始めて、とても無理なく話が盛り上がっていったのを目の当たりにしたからだ。
読み会含めこれまでに開催してきた戯曲を読んでフィードバック、という形式では、あそこまでの盛り上がりに繋がったことはなかったのでこれは本当に色々と考えさせられた。

たぶん、これまでの会でも、盛り上がってはいなかったけれども別に参加者の方々が何も感じていなかった訳ではなかったのだとは思うし、それは自分も承知していたことだった。
しかし何故それを引き出すことができなかったのか、どうしたら引き出せるのか、それがどうしても見い出せなかったのが正直なところだった。
かなり色々なことは試してきたのだが、どれも有効打にはならずに、結局は停滞気味の空気が場に流れてしまいがちであったのだ。

が、今回のこの会の後に入った店での盛り上がり方は、自分が理想としていたようなくらいに活発に意見が飛び交う、とてもポジティブな発想の循環が生まれていたように感じられた。

きっと、そういうことなんだろうな、と思った。


という訳で、次回はこの経験を踏まえた上で、より各参加者にとって有意義な時間を過ごせるような場の構築を目指してみたいなと思っている。
というか、かなり具体的に、次回のこの会の進行プランは浮かんできているので、早速5月頭に予定している第4回には反映させてゆくつもりだ。

やはり人と連携しつつ場を作り上げてゆく、ということからは得るものが非常に多い。
きっとそこに気付けたということは、この勉強会も次のステージに上がったのかもしれないなと、そんなことを思い始めてきている。

という訳で、この勉強会も、今後の発展のため大きく手を加えてゆくつもりなので、近いうちにこのブログからもお知らせをすることになるかと。
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by syohousen | 2012-04-14 22:31 | レポート(勉強会) | Comments(0)

2/5(日) 【第2回】『新作戯曲の試食会』レポ

2/5(日)18:30~21:30
【第2回】『新作戯曲の試食会』
@落合第二地域センター・小会議室

◆使用テキスト◆
●作:土路生真隆『身体と心の関係』
●作:土路生真隆 『エレベーター音楽の孤独』

【ふりかえり】
2回目の開催となる『新作戯曲の試食会』。
前回に引き続き、土路生真隆さんのテキストを使用した。

但し今回は、前回とは違って進行は完全に土路生さんに一任する形で、自分はホスト兼俳優、という立場での参加で行った。
今後この企画を継続して行うためにはどのような形で行ってゆくのがよいのか、そこを色々と探るためにも、様々なスタンスの取り方を今は試していった方がいいのだろうなと、そういう意図も少し含みつつ、自分にとって思い入れの非常に強い戯曲である『エレベーター音楽の孤独』へ余計なことを気にせず俳優として純粋な気持ちで向き合ってみたかった、という気持ちも多分にあったためにああいう進行形式にした、というのが正直なところであった。

結果、面白い発見というか、やはり作家と俳優ではああいった場の利用の仕方が全然違うのだなと実感し、個人的にも「なるほどな」と思わされたことの多い有意義な時間となった。

前回、自分は最初の方の言葉に慣れるまでの間はフラットに読んでみて、読む度にフィードバックの時間を設け、読む毎に起こる自らの心身の変化を感じてもらい、ある程度戯曲の言葉に慣れてきたら俳優の身体へ向けて仕掛けを打ってみて、当人達にも思いもしなかったような発見を促そうという、言ってみれば能動的に発見を探っていった感があった。
が、土路生さんの場合は、余計な仕掛けは行わず、読む度にキャストを入れ換えながら時には最低限必要なことだけを指示してあとは俳優個々人の感覚に任せて読んでもらい、自らは戯曲がどのように立体に起こされてゆくのかを注意深く探っていたように見受けられた。

まあ、これはもしかすると作家と俳優、というよりも土路生さんと横山の性格や演劇観の違いなのかもしれないが、限りなく近い条件で行った場で、言ってみれば「動」と「静」という全く正反対の進行具合になったというのは、今後のこの会の行く末を占う上でもかなり大きなことであったように思う。


というのも、今回の感触的に、この企画自体が横山が中心になって進行させなくてもうまく回せるんじゃないか、という手応えを感じることができたためだ。
横山はお膳立てをすることだけに徹して、仮にもし横山が参加できない状況でも進行を誰かしらに一任することのできるシステムのようなものを構築してしまえばよいのだなと、そう思った。

システム、というと大袈裟かもしれないが、要は、この会の枠組みだけしっかり作ってしまって、「自分の書いたものを読んでもらいたい!」という人がいた際、その人のやることは当日の進行だけ、という環境を作ってしまえばいいのだなということだ。

作家の人がこの企画に気軽に申し込めるシステムを作ってしまえば、自然と多様な文脈を持った作家の人も集まってくるはずで(もちろん然るべき周知努力は必要だが)、そうなってくると作家同士でも刺激を与え合える状況を作ることができるだろうし、作家でない俳優の参加者にとっても多様な作家の言葉に触れることのできる環境が生まれてくるし、もしかしたらその出会いからオファーに繋がり公演に発展してゆくこともあるかもしれない。
また、色々な人が進行役になれる環境が整えば、今回のように進行役によるファシリテートの違いを味わうことができ、自らのやり方に拡がりを持たせることも可能なように思う。


という訳で、次回からはこの『新作戯曲の試食会』と『読み会』は全く別の企画として分けて考えてゆこうかと思っている。
それに伴って、この会の名前も変えてみようかと思う。
あまり「戯曲」にもこだわりたくないので、「新作の書き物を他者に声に出して試し読みしてもらう場」という意味合いの名前を考えてみるつもりだ。

なお、詳細が決まったら参加希望の作家さんの募集も開始するつもりなので、その際は当ブログにて告知するかと。
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by syohousen | 2012-02-11 16:52 | レポート(勉強会) | Comments(0)

1/27(金) 勉強会レポ『適当のススメ』

1/27(金) 18:45~21:00 @阿佐谷地域区民センター・第3和室

◆◇◆声と身体の処方箋・定期勉強会◆◇◆
【WS実験】
『適当のススメ』

■リーダー:横山 真

【テーマについて】
高田純次氏の著書に同名の著作がありますが、まさに今回は、あの人の魅力である「適当さ」についてを色々な角度から探ってみます。

どうしたら日頃何かと気になってしまう常識や理屈などを振り切り、適当であれるのか。
どうしたら抱え込んでしまわずに、いい意味で無責任になれるのか。
どうしたら言葉といい感じの距離感で付き合うことができるのか。

そんなことを、身体へのアプローチを中心とした様々な仕掛けで実験しつつ、「適当さ」についてを大真面目に検証してみようかなと思ってます。


【進行】
■雑談(主にここ最近、特に年末年始のことなど中心に)
→話の中に少しずつ嘘を混ぜてゆく
■知ったか説明①
■フィードバック

■何でも鑑定(手にとって、言葉はなし)
→その物を床に置いて、手では触れずに鑑定士っぽい佇まいで眺めてみる
→もう一度、触れてみる
→周りの誰に聞かせるでもない独り言をぶつぶつ言いながら、眺めてみる
→フィードバック

■知ったか説明②
→フィードバック
■単語拾い
→フィードバック
■何でもオウム返し
→フィードバック


【レポート】
≪雑談→嘘を混ぜてゆく≫
●内容
最初はもうその言葉の通り、雑談。

開始前から続けていた話をそのままの流れで続けてゆき、頃合いを見て「じゃあこのまま話は続けつつ、嘘を混ぜていって下さい」と告げる。

会話の際はお互いに相手の言っていることを否定せず、仮に「ん?」と思ったとしても会話を停滞させないことの方を強く意識してやり取りを行う。
もし相手の話を聞いていて「これ嘘っぽいなぁ」などと感じてしまった場合は「それ嘘でしょ」とぶった切るのではなく、それを本当のこととして扱いながら、どうすれば成立させることができるのか、話しながら一緒にその嘘を強化させてゆこうと試みてみる。

●行なってみて
・まあ、今回は人数も少なかったため、頭のウォームアップも兼ねて行ってみた。

・とはいえこういうものは、結構その人の性格が出るため、すんなり嘘をつける人と嘘が身体に分かり易く出てしまう人とで明確に分かれるものだなぁということを実感した。
・特に雑談をしていた時の身体と「嘘を混ぜてゆきましょう」と支持を出した瞬間以降の身体のあり方の変化は、その人の考え方や思考の傾向のようなものを浮き彫りにしてくれるので端から見ていて非常に面白いなと思った。
・その変化が生まれるポイントも実に多岐に渡るもので、姿勢、緊張具合、呼吸、間、目線、言葉のチョイス、言葉の連なり方、、、などなど他にも沢山ある。

・ただ、この時にこのエクササイズを行ったのは、あくまでも「“うまくできない自分”を体験してもらうこと」が目的だったので、うまくいくかいかないかはあまり問題ではなかった。
・もし仮に「どこで嘘をついていたのか全く分からなかった」というような人がいたとしても、それはそれで何かしらの身体の変化が生まれていたはずで、それを発見してもらえればいいと考えていた。

・このエクササイズが生きてくるのは、後々のエクササイズの際で、それについてはまた後で書こうかと。


≪知ったか説明①≫
●内容
何かひとつ、その人にとって全く馴染みのない、全く意味の分からない単語を適当に選び、そのことについて「知ったかぶって」語ってもらう。

当然、知らないような素振りは一切見せてはならない。
むしろ聞いている側の人間に対し「なんだ、こんなことも知らないの?」とばかりに見下して行えるとなおよいかも。

●行なってみて
・基本的に、知ったかぶるときというのは己の見栄のためにその知識について知らないことを悟られないように行うことが多いと思う。
・が、今回のこのエクササイズではその「見栄」という要素は少なく、なのでどちらかといえば知ったかそのものの状態を再現するというよりも、お互いに「嘘である」ということを共通認識として持った中で「知ったかを演じる」という状況になる。

・まあ、この状況は予め予期していて意図的に作り出した訳でなく、全く知らないことを「知ったか」で語ってもらったら何か見えてくるんじゃね?という程度の考えで試したら結果的にこういう状況になった、という感じ。

・結果オーライとはいえ、この発見は「適当」というものを探る上でかなり大きな発見であった。

・適当、という状態というのは、周囲への信頼が必須なのだということに気付けたからだ。
・もし自分しか存在していない世界(或いは無人島などの自分一人で生きてゆかねばならない状況)であったならば、たぶん人は自らが生きるために必死になり、適当である余裕などは持てないのではないか。
・従って、自分以外の人間に委ねられるものがあるから、委ねても生きることに支障がないからこそ、適当になり得るのではないか、という推論が成り立つと思う。

・このエクササイズの場合で言うと、予め「嘘をつく」という行為を認めてくれる人がいる、という安心感が、適当な発言を担保してくれているなということ。
・なので普段ほとんど(自覚的に)嘘をつかないような人でも、このエクササイズでは臆面もなく堂々とあることないこと適当にほざきつつ嘘をついてくれる。
・そして、その嘘を堂々とつけている状態の時というのは、確実に聴き手に対して何かを委ねている状態になっているように見受けられる。
・そこにこそ、この「適当」を解き明かすための重要な要素のひとつが隠されているような気がする。

・この感覚、俳優として要求される思考回路、そして身体に非常に似ていると思う。
・そもそも俳優と観客の関係が、「嘘をつく、つかれる」の前提で成り立っている部分がある。
・演劇公演を観て、「騙された!」と憤る観客はいないのだから(作品のクオリティに「騙された!」と憤る観客はいるだろうが)。

・ただ、これが面白いのだが、今回のエクササイズにせよ舞台作品にせよ、あまりにその「対象の嘘を認める姿勢」に寄りかかり過ぎると、その嘘は聴き手にとって一気に許せないものになってしまう。
・その境目がどういったところにあるのか、そこを見極めてみるが次の課題か。


≪なんでも鑑定≫
●内容
何でもよいので物をひとつ選び、それをあたかも高価な品物であるかのように扱い、見定める。

その際、言葉は一切使わないこと。
そのかわり、「はぁ~」とか「ほぉ~」とか、そういった感嘆の呼吸の類はOK。

イメージとしては「なんでも鑑定団」の鑑定士の方々のような居住まいで、威厳を持って品定めをする。

●行なってみて
・今回のWS実験で一番試してみたかったエクササイズ。

・自分は以前から、適当さを感じる人にはなんというか「適当オーラ」というか、「適当モードの身体」があるように思っていて(高田純次氏がその典型)、それを人為的に作ることはできないのか?と考えていた。

・一つ前の「知ったか」もその考えから浮かんだエクササイズのひとつであったのだが、ただ、「知ったか」の場合だと言葉が絡んでくるため、身体で考えられる人ならいいのだが、そうでない人にとっては頭の中の問題に陥ってしまう危険もあり、そこから身体の変化に繋げるには少々ハードルの高いエクササイズのようにも考えていた。

・しかしこちらの方は、敢えて言語を廃し、身体で「知ったか」ぶってもらおうというエクササイズである。
・しかも鑑定対象は「ペットボトル」とか「ふでばこ」とか「壁紙」とか、およそ高価とは程遠いものだ。

・となると必然的に滑稽な状況が生まれる。
・そして、その滑稽な空気を感じることができれば、より強度の高い没頭を行わねば面白さが半減してしまうことにも気付くことができるはずだ。
・この繊細な空気感の違いについても、言語を廃しているからこそより感じ取ることができるものなんじゃないかと思う。
・というのも言葉という強力な武器を持っているためにどうしてもその武器に頼りがちになってしまい、「言葉でどうにかしよう」と発信重視になって受信の方が疎かになってしまう傾向が言語を扱うエクササイズの際には多々見受けられるからである。

・今回、参加者のNさんが、このエクササイズ途中で突然猛烈に面白くなった瞬間があった。
・フィードバックの際にそのことについて聞いてみたらやはり心身共に変化の自覚があったそうだ。
・特に身体で考えられるようになったことが大きな変化だった、とのこと。その場の状況に身を委ねることができた、とも。

・今回試してみて、このエクササイズ、もう少し深めてみたいなと思った。

・例えば対象を物だけでなく、人でやってみてもいいかも、とか。
・あとは鑑定結果と解説もこのエクササイズに加えればよかったかも、とか。

・誘導の仕方も、改善の余地はありそうなので突き詰めて考えてゆきたい。


≪知ったか説明②≫
●内容
基本的には①と同じ。

但し、直前に行った「なんでも鑑定」を行った際の居住まい・テンションを保ったままに行ってみる。

●行ってみて
・1つ前の「何でも鑑定」を経てからやってみると、同じエクササイズなのにここまで変化するものなんだなと、勝算は元々あったにも関わらず驚かされた。

・先に行った時にはあれだけ言葉に詰まってしまっていたのに、今回は次から次へと言葉が溢れ出てくる感じだった。
・「立板に水」というよりは「数で水嵩を増やしてその圧で突き抜けてゆく」ような印象。

・たぶんどちらの状態に至っていたとしても面白い状態にはなっていたと思う。
・ただ、「立板に水」状態も見てみたいなと思うので、そちらへうまく導くことのできる進行も考えてみようかと。


・「身体で思考する」という感覚を一度体験してから言語を扱う、という流れの方が段階としてはスムーズなのだろうなと思った。
・が、今回のこの流れについては、わざとこういう「言語を扱うエクササイズ→身体での思考を促すエクササイズ→言語を扱うエクササイズ」という流れにした。
・それは何故かといえば、一度「言語を扱うことの難しさ」を味わうことで自らの身体のモードの変化を体験して欲しかったからだ。
・発語の詰まりを体験することなくスムーズな発語の状態を作ってしまうと、その変化のありがたみを実感することはできないし、今回のテーマである「適当」についての立体的な考察を行うことができないと判断した訳である。

・「効率化」だけではWSは成り立たない、いや、成り立つのかもしれないけれども、でも、それが参加者にとって有益なことなのかどうなのか。

・ただ、言えることは、今回の場合には、この判断は決して間違っていなかった。

・その場限りでの成果ばかりを望んでしまうことで、零れ落ちてしまうものというのは思ったよりも多い。


≪単語拾い≫
●内容
お互いに遠過ぎず、近過ぎずの適当な距離をとりつつ向かい合った状態で立ち、片方は出されたお題についてを相手へ語る。
話を聞く側の人は、全くのランダムでよいので、その時に思い付いた単語を語っている相手へ投げかける。
語っている側の人は、その投げかけられた単語を今まさに語っている話の中に無理矢理にでもいいから交えながら方ってみる。

●行なってみて
・このエクササイズは、これまでも結構行ってきたものなのだが、この時の適当モードと言えるような状態で行ってみたらどうなるのだろうか、という観点から取り組んでみた。

・実感として、このエクササイズをうまく回すためにはもうワンクッション、何かしらの仕掛けを盛り込まないと厳しい気がした。
・「言語に対する受信」のアンテナの感度が足りないなと感じたためだ。
・相手との空気感の作り方はいいのだが、自分の元へ言葉が飛んでくるとどうしても頭を通過して理で捉えてから言葉を発しているように見えるのだ。
・もっと反射的に言葉が出てくる感じがあると、この「適当身体」をより活かせるんじゃないかなと思った。言ってから意味が追い付いてくる、みたいな。

・たぶん、そのためには自らの身体を信じられる強い意思が必要なのだと思う。
・周囲にだけでなく、自らの身体にも委ねられるだけの強い心が。


・このエクササイズ、行いながら気付いたのだが、もしこれを安定的にクオリティの高いパフォーマンスに仕上げようと思ったら、口で言葉を発しながらも頭では自らに投げかけられた言葉について考えを巡らせられる濃密な集中力が要求される非常に何度の高いエクササイズでもあるのかもしれない。
・そしてそれは、今回のテーマである「適当」からもう一つ上の次元の話なのかも。
・勢いだけではどうにもならない、しかし勢いがなければ至れない、そんな地点。
・もしかすると高田純次氏は、ここの地点に身を置いているのではないかとも思った。

・ゆくゆくは、そこへと挑んでみたいなとも思う。


≪何でもオウム返し≫
●内容
これもお互いにほどよい距離で向き合った状態にまずはなる。
そうしたら、片方が何でもよいので何か語る。
聴いている側の人は、とにかく相手の言う言葉一つひとつに対し可能な限りオウム返しで反応する。

●行なってみて
・なんというか、これと一つ前のエクササイズの順番は逆の方がよかったなと思った。
・これについては完全に誤算で、何かしらの意図があっての順番ではなかった。
・元々ラストの2つはおまけのつもりで行ったため、少し気が緩んでいたのかもしれない。反省。

・ただ、そのミスの甲斐はあった。

・正直、このエクササイズ単品ではほとんど成果が上げられなかったように思えたのだが、唯一「人の言葉をニュアンスだけでなく正確な言葉として聞く」という点においては効果てきめんなエクササイズのため、他のエクササイズとの組み合わせによっては重要なものになるかもしれない。なんというか、福神漬けみたいなエクササイズだなと感じた。
・しかしそれも時間のない中で急ぎ足で試した結果なのでたぶん改善の余地は多分に残されているだろうし、負荷の与え方次第では十分に独り立ちできるものではあると思う。

・これも次回へ持ち越しかなと。


≪全体のふりかえり≫
・今回、直前キャンセルの方も数名出てしまって人数が少なかったこともあり、当初考えていた進行やエクササイズ達のことは一度白紙に戻し、テーマだけを意識してその場その場の状況に応じたエクササイズを行う、という進行へと急遽変更してみた。
・結果として、その判断は適切だったのではないかという実感を得られる内容であった。

・というのも、一つひとつのエクササイズを経る度に訪れる身体の変化を、じっくりと噛み締め、ふりかえり、次はどうすべきかについてを参加者との対話を交えつつ丁寧に考えることができたためだ。
・予め想定していたプログラムを行ってみてどうなるかを確認するのではなく、目の前にいる人の身体が今どのように変化していて、その変化に対しじゃあこうしてみようか、と、事前の段階では思いもしなかった方向へと場が展開してゆき、思いもしないような気付きが次々と生まれてきていたのだ。

・まあ、多角的な見方を探る、という点では十分な成果を上げられなかったのだが、しかしそれは人数が少なかったという現実的な問題に起因していることであって、そこを解決するためにはこの会の開催前の段階でのあり方を改善すべき問題である。
・これは勉強会メンバーの更新状況も関連している問題であって、早いところ然るべき手を打つべきだとは思う。
・特に自分は2月中頃より5月まで仙台へと行ってしまうのだから、そこまでの間に何かしらの目処を立てておくべきだ。でないと再び停滞が待っていることだろうから。


・内容のことについて触れてみると、今回、「適当」というものがテーマではあるけれども、その適当、という状態へ至るためのアプローチとして何が有効なのか?を考えた時、「嘘」という行為がかなり重要な鍵を握っているんじゃないかと考えていて、そのため、今回は(特に前半)その嘘を裏テーマというか、軸にして進行させていった。

・その推測は間違ってはいなかったと思う。
・が、少々「嘘」というものにとらわれ過ぎていたようにも感じられ、もう少し幅広い視点を持って考えてみてもよかったかもしれない。

・「嘘」に特化させて徹底的に検証してみるか、あらゆる観点から「適当」についてを眺めてみるか、次回もこのテーマでやるとするなら、「適当」を漠然と捉えるのではなく、もっと細分化させて方針を明確に定めた方がいいのかもしれない。

・まあ、その方針も、参加者数が限られてしまえばやれることも限られてしまう。


・色々と同時進行になってしまって大変だとは思うが、それも自らで選んだ道、強い気持ちで以て突き進んでゆこう。
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by syohousen | 2012-02-10 15:31 | レポート(勉強会) | Comments(0)

12/27(火) 『新作戯曲の試食会』レポ

12/27(火)18:00~21:00
【声と身体の処方箋・勉強会】『新作戯曲の試食会』
@落合第二地域センター・音楽室

◆使用テキスト◆
●原作:村上春樹/作:土路生真隆 『かえるくん、東京を救う』
●作:土路生真隆 『エレベーター音楽』(一部抜粋)

【進行】
『かえるくん、東京を救う』
■フラットに読んでみる
→ひとこと感想×2周
→フリートークへ
■キャストをシャッフルしてもう一度読んでみる
→フィードバック
■再びキャストをシャッフルし、冒頭部分を抜粋で読んでみる
→フィードバック

『エレベーター音楽』
■フラットに読んでみる
→フィードバック
■キャストをシャッフルしてもう一度読んでみる
→フィードバック
■キャストをシャッフルし、間や感情を気にせず最速で読んでみる
→途中で頃合いを見計らって通常のスピードに戻してみる
→フィードバック

もう一度『かえるくん、東京を救う』
■最速で読んでみる
→途中で通常スピードへ
→フィードバック

【ふりかえり】
自分の青年座研究所時代の同期でもあり劇作家でもある土路生さんからの依頼で開催した読み会の特別版『新作戯曲の試食会』。

公演などに関わりなく戯曲を書いてみた場合、複数の人に実際に声に出して読んでもらう機会というのはなかなか設け難いため、勉強会内の活動である読み会の場を利用して色々試してみようというこの試み。
やはり戯曲というものは小説などとは違って「3次元に起こす」ということが大前提としてあるため、このように人に声に出して読んでもらわねば気付かないことが沢山ある。

一方、勉強会のメンバーにとっても、自分達と同世代の劇作家の人の書いた戯曲を「公演」というものを絡めることなく自由な距離感で以て向き合う機会というのは意外と少ないため、とても貴重な機会だったりする。

という訳で、お互いの利害が一致しているこの取り組み、参加者の反応を見た限りでは、とても発見の多い有意義な時間を過ごせたであろう確かな感触を得ることができた。
また、戯曲を提供して下さった土路生さんからも今朝「昨日は有意義でした。またやってほしい」というメールがきたため、早くも次回開催へ向けて動き出せる態勢を整え始めている。

開催する前は随分と不安もあったのだけれども、これからに繋げることができて本当によかったと思っている。


ただ、今後もこの取り組みを続けてゆくのだとしたら、もう少し進行を整理する必要があるなと思う。
今回のようなやり方では、きっと続かないので。

何故続かないと感じたのか、と言えば、フィードバックの時の意見の出方に個人差が出てしまって、終盤は特にだが、気付くと同じ人ばかり話してしまうような状況になってしまっていたからだ。
これは完全に司会進行役を勤めている自分の責任である。

や、とは言っても、別に全員が満遍なく意見を出し合える状況にしなければいけない訳ではないとも思っていて、問題なのは「お客さん」を作ってしまったことだ。

何も饒舌に意見を出せることばかりが素晴らしいという訳ではなく、例えば言葉ではうまく説明できないけれども話している際の言葉以外の部分で色々と伝わってくる人もいたりするのだから、「うまく話せる」ということだけがその場の価値基準になってしまうと、出てくる意見もその価値基準に沿った適正を持つ人の意見に偏ってしまうし、そうなれば場に生まれてくる発想や発見も狭くなってしまいがちになる。
何より、その価値基準に沿った適正をあまり持ち合わせていない人が引け目を感じ、閉じていってしまうこと(つまりそれが「お客さん」ということなのだが)が一番怖いのだ。

そして今回、それが多少ながらも見え隠れしてしまっていたため、このままの進行のやり方では駄目だろうなと、感じた訳である。


では、どうすればいいのか。

おそらく一言で言うならば、「関わり方の多様性を保証する」という一点に尽きる。
もう少し噛み砕いて言うならば、「あなたのその関わり方でもいいんだよ」と受け止めてあげることから入り、場の一員であることを実感してもらってから、その人なりの場への関わり方を一緒に探ってゆける環境を作る、というイメージか。

まあ、そうは言ってもじゃあ具体的にはどうすればいいのか、というと、これがまたケースバイケースだと思うし、だから「これだ!」という風に明確に打つ手を今、ここで説明することは難しいのだが、ひとつ思うのは、「この会の方針をもっと明確にすること」が重要なのではないかと思う。

今回、この会の開催意図としては、

「戯曲の推敲のため、他の人に実際に声に出して読んでもらう」
「同世代の劇作家の新作戯曲を公演を絡めずに読んでみることでの新たな発見」
「普段の繋がりとは違った人達と初対面でいきなり戯曲を読み合わせてみることでの新たな発見」

などが挙げられる。
しかし、ここが問題だったのではないかと思うのだ。

別にひとつに絞り込む必要はないのかもしれない。
が、司会進行を勤める際には、それらを頭の中でちゃんと整理整頓をし、状況によってその時投げかけてみる質問や聞き出す意見の方向性を明確に打ち出す必要があるのだと思う。

ただ闇雲に、その時の思いつきで質問をしているから、折角のいい意見が出てきたとしても膨らみ切らないし、停滞も生まれてくるのではないか。
また、読んでみた戯曲の作品性についてばかり聞いてしまっていたことも、あの堅苦しい空気を生んでしまった一因のような気がする。

例えば「ここは作家として読んでくれた人に何か質問したいことはないか?」と振ってみたり、「読んでみた人達で、作家に聞きたいことは?」と振ってみたり、或いは「相手役がさっきと変わったけど、何か変化はあった?」とか、その時その時で今回の開催意図の中で何を優先してみるといいのかを冷静に判断しつつ質問を考えれば、たぶんいくらでも聞きようはあったはず。

そして、そうやって場の空気をうまくかき混ぜてゆければ、自然と場の方向性というかノリが参加者一人ひとりに伝播してゆくだろうから、きっと意見なども出てき易くなってゆくんじゃないかと思う。

なので今後は、そこのところを気を付けて臨むようにしたいなと。


しかし先にも書いたように、この企画自体は、それがたとえ結果オーライであったとしても、とてもよい成果をあげることができたのではないかと思っている。

それだけに、今回の反省は今後に活かし繋げてゆかねば、継続しての開催を申し出てくれた土路生さんの期待にも応えることはいずれできなくなってしまうだろう。

心して、取り組んでゆきたい。
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by syohousen | 2011-12-28 23:02 | レポート(勉強会) | Comments(0)

10/18(火) 読み会レポ

10/18(火)18:15~21:00
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』 @清沓仲通会議室・洋室1

◆使用テキスト◆
●岸田國士『紙風船』


【進行】
■フラットに読んでみる
■率直な感想

■現代口語に変換して読んでみる
■フィードバック


【ふりかえり】
先月から今月にかけて、岸田國士氏の『紙風船』をテキストとしての読み会を予定していたのだが、勉強会のメンバーの予定が皆全く会わなかったために、約一ヵ月半ぶりの開催、という訳で、今回が初の『紙風船』使用回となる。

実際に声に出して読んでみて感じたことは、一見すると何気ない夫婦の会話でしかない地味な物語であるにも関わらず、凄まじいほどに膨大な量の想像を掻き立ててくるとんでもない戯曲だなということ。
たぶん読み手によってこの夫婦の関係性が全然違って見えてくるんじゃないかなと思った。

また、試しに現代口語に変換しながら読んでみることで気付いたことなのだが、この夫婦のやり取り、現代人の感覚からすると古臭いのかなと思っていたらとんでもない、今でもこういうやり取りは普通に行っているなという風に感じることができた。
もちろん当時の生活習慣や文化の違いは頑として存在してはいるのだけれども、感性的な部分では共感できる要素が多く、ああ、普遍を描くとはこういうことなのだなと、身を以て味あわせてもらえた気分だった。

ただ、この戯曲をもっと深く掘り下げてゆくには、当時の文化や習慣、時代背景などを知っておく必要があるなと、そうも感じさせられた。
普遍的な部分が描かれた作品であるからといって、今の感覚では違った意味合いで受け取れてしまうところはゼロではないし、むしろそういうところがしっかりと描かれているからこそ、その当時の風習にどう向き合っているか、を描くことにも繋がる訳で、だからこそ時代を越えた普遍に辿り着けるのだと思う。

なので次回までに、当時の風習などについてを入念に調べておきたいなと。
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by syohousen | 2011-10-25 14:16 | レポート(勉強会) | Comments(0)

8/2(火) 読み会レポ

8/2(火)19:00~21:00
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』
@西荻センター・勤福会館・第3和室

◆使用テキスト◆
●野田秀樹『半神』より抜粋
●清水邦夫・村上春樹の著作のタイトルを並べて書き出してみたもの
●EGO-WRAPPIN'『くちばしにチェリー』『色彩のブルース』の歌詞

【進行】
■それぞれの詩を持ってきた人自身でフラットに読んでみる
■他の人に読んでもらう

■他の人に、自分なりに試してみたいアプローチで読んでもらう
●江野澤くんの場合●
・歌詞を読んでみて、そこから得られる印象を言葉にしてみる
→その印象を元にメトロノームでリズムを刻んでみて、そのリズムに合わせた読み方で読んでみる
→フィードバック
→その歌詞の歌を実際に聴いてみる
→その歌詞の歌のPVを実際に観てみる
→フィードバック
●横山の場合●
・(選んだのがモノローグの台詞の為)流れで読むのではなく、句読点で極端に区切ってみて読んでみる
→普段の台詞との読む感覚の違いをフィードバック
→句点と読点で切り方を変えて読んでみる(句点は詩の表記でいうなら段落が変わるように、読点は一マス空けるように)
→先との違いをフィードバック
→違う部分のモノローグ台詞を同じようにして読んでみる(こちらは詩的ではあるものの先のものよりは台詞っぽい台詞)
→最初の台詞との違いをフィードバックしつつ、「詩の読み方」というものを検証してみる


【ふりかえり】
今月の読み会は、参加者がそれぞれで思い思いの詩を持ち寄り、その集まった詩を用いて色々なことを試せるような場として進行させてゆく形にしてみた。
ただ、これまでの予めテキストが決まっている状態で参加してもらうという形式に比べるとどうしても一作業参加のためにプラスされてしまうこともあってか、なかなか参加の申し込みが得られず2名だけでの開催となってしまった。

が、それはそれでやってよかったなと思える有意義な時間となれたので、しかもそれは2名だったからこその結果のようにも思えたので、結果としては怪我の功名だったのかなという気がしている。
一度はこの日の開催を取りやめようかとまで考えていたのだけれどもそれを止めて開催しましょうと意見してくれた江野澤くんには心より感謝。


今回、実際に詩を声に出して読んでみると(まあ、正統派の「詩」を2人とも用意してなかったのでこれが全ての詩と呼ばれるものに当てはまる感覚かはまた別の話となってくるかもだけれども)、普段「台詞を読む」という行為に慣れてしまっている役者の身としてはその読み方に対してかなりの戸惑いを覚えてしまった。
というのも、情感を入れて読もうとすれば逆に言葉が薄っぺらくなってゆくような感覚に陥り、やたらと噛んでしまうという結果になってしまったのと、その詩を通る一本の線というか芯のようなものが必ずしも「感情」ではなかったりするため、自らの身体の生理を基準にして読もうとしてもなかなか言葉が出てこないように感じたためだ。

同じ言葉でありながらも、発する際のメンタリティがここまで違うものなのかと非常に興味をそそられたのだが、そこでその「詩の読み方」についてのアプローチを、今回参加の江野澤くんと横山の2人で各々のやり方を以て検証してみようという流れになっていった。

江野澤くんは外部からの負荷を以て、横山は内側の身体感覚とイメージの距離感を測りつつでの検証となったのだが、どちらも面白い発見があったなと、素直にそう思えた。
2人で好対照のアプローチだったため、今回の読み会の進行を通しで俯瞰して眺めてみることでその検証に立体感が生まれてきたなと、そう感じた。

特に面白かったのは、メトロノームを用いてリズムに縛りを加えて読もうというアプローチで、その歌詞の歌が「歌詞に合わせて曲ができたのか」と「曲に合わせて歌詞ができたのか」という点にまで想像が膨らんでいったこと。
これは無意識的に、自然にそうなったのだけれども、『色彩のブルース』では歌詞から受けた印象を元にメトロノームのリズムを決めて読んだところを、『くちばしにチェリー』では歌詞からの印象よりもまず先にメトロノームのリズムを決めてからそれに合わせて読んでみたくなってしまったのだ。
このことに自分はフィードバックの際に気付いた訳なのだけれども、そこで思ったのが先に挙げた「歌詞が先か曲が先か」という違いなんじゃないのか、という点であった。
や、実際のところは分からないのだけれども、でも、そこまで同じアーティストの曲の歌詞であっても違う感覚を与えられるのかということに気付けたのは、ひとえに今回のような仕掛けを用いたからこそなのだと思った。


今回みたいな形式での読み会も案外いいものだなと、心から思う。
何よりこちらの意図しないようなものがその場で生まれてくることがとても嬉しい。

但し難しいのは参加のために一手間かかってしまうため、強制ではなく自由参加である読み会の性質上、若干ではあるけれども人が集まりにくくなってしまう傾向があるという点については、何らかの手を打ってゆくべきなのかもしれない。
まあ、あまり手を加え過ぎてもそれはそれで問題は生まれてくるだろうから、いいバランスを考えつつで、よき方向へと進んでゆけたらなと。
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by syohousen | 2011-08-03 10:19 | レポート(勉強会) | Comments(0)

6/21(火) 読み会レポ

6/21(火)18:00~20:30
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』
@久我山会館・第3集会室

◆使用テキスト:土路生真隆『motion picture soundtrack』

【ふりかえり】
今回は、劇作を中心に活動している方が参加して下さったため、これまでとはまた違った視点からの意見が出てきてとても面白い有意義な話が交わされたなと感じた。

役者だけで戯曲を読んでみて感想を言い合う場合、どうしても「自分だったらこの役とはこう向き合ってゆくかな」とか「どうしたらこの戯曲を面白く成立させられるか」とか、テキストそのものへの提言的な話よりもこのテキストをどう料理してゆこうか、という発想での意見になってしまいがちだ。
もちろんそれは悪いことではないし、基本的にはそのように創作へと取り組んでゆくような現場が多い訳だからそういった傾向になることは自然な流れだと思う。

しかしそこに作家目線が加わることで、これまで絶対的な存在(のようなもの)であったテキストも、舞台作品のを構成するひとつの要素でしかなく、別に戯曲が上だとか役者が上だとか、そんなことはないのだということに皆気付かせてもらえたために、話す内容に拡がりが生まれたように思えた。
要は、「テキストありきの意見交換」という前提が崩れ去ったという訳だ。

なるほどなと。

ひとつでもそれまでとは異なる視点が混じることで、その場で交わされる意見や生まれてくる発想は全くの別物(但しそうはいってもそれまでと地続きではあるのだけれども)になってくるのだなと、そう実感させられた有意義な時間であった。

きっと、こういう感じで今後も役者以外の視点を持つ方々が参加できるような環境を作ってゆけたなら、この読み会という場もより意義深い取り組みとなれるのだと思う。


しかしそれと同時に、進行を務める側からのアプローチの仕方も少しずつ見えてきたような気がする。

毎回先に書いたように様々な視点を持った方々が1人でも多く参加してもらえたならば最高なのだけれども、勉強会の現状を見ている限りではそれはまだ難しい話ではあるなというのが正直なところだ。
なので参加メンバーの構成に左右されない有効なアプローチ法も進行役としては考えてゆかねばならない。

これまでのように、極力こちらからは干渉し過ぎないようなるべく自由に話してもらえる環境づくりを心掛けて進めてゆくのは、たぶん様々な視点を持った方々が集まった際に採るべき方法なのかもしれない。
意見の違うもの同志が集まったならば、別にこちらから何か特別な仕掛けを設けなくても話はどんどん展開してゆくのだろうから(もちろん意見を出し易い環境はつくらねばならないけれども)進行役は完全に黒子に徹していればいい。

しかし役者だけ、というように同じような視点を持ったメンバー構成の場合には、少なからずこちらからの仕掛けを用意しなければなかなか話が展開してゆかず、単発での思い付きの話をいくつも並べてゆくだけの時間となってしまうのだと思う。
まあ、それでもたまには発見の多い有意義な会話に発展する可能性もあるかもしれない。
けれどもそれではあまりにも運任せだし、ただ何となくの会話が延々と続いてしまう可能性が非常に高くなってしまうだろうから、時間の過ごし方としてはとても勿体無い。

なので、例えば問題提起をしてから読んでみるとか、こちらが参加者とは違う視点を意図的に持って意見交換の際に意地悪な質問(別に意地悪でなくてもいいけれども)をしてみるとか、或いは読む際に参加者に「試しに○○の視点で読んでみて下さい」とか、何かしらの負荷をその場なり参加者なりにかけた状態で臨んでみるとよいのかなと、そう思った。
まあ、それもやり過ぎてしまうとある一定の方向へと場の意見を進めてゆかねばならないような変な引力がその場に生まれてきてしまう危険性もあるため、バランスが大事なのだとも思う。

いずれにせよ、これからは何かしらの変化を加えてゆかねば、惰性だけで何となく行っているつまらない集まりになってしまうだろうから、この会の持つポテンシャルは常に引き出しきるつもりで毎回臨んでゆくようにしたい。
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by syohousen | 2011-06-22 13:20 | レポート(勉強会) | Comments(0)

6/14(火) 読み会レポ

6/14(火)19:00~22:00
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』
@清沓中通会議室・洋室1

◆使用テキスト:土路生真隆『motion picture soundtrack』

【ふりかえり】
今回の読み会では、参加者の中にこの作品の公演を実際に観たことのある方がいたので、これまでとはまた一味違った感じの会となれたように思った。

まあ、8年前の舞台なのでその影響もあるのだろうけれども、「こういう話だったのか」という外側から観ていた時とはまた違った印象を抱いてもらえたのはとてもよかったかなと思う。
実際にお客さんとして作品に触れてみた時の印象とその戯曲を声に出して読んでみての印象の違いのようなものから、俳優としての何かしらの発見を見出すことも可能かもしれないし、またもしかしたら観客としての観劇のあり方のようなものも見つめ直すことができるのではないかなという気がする。


思うのだけれども、やっぱりこういう場って必要なんじゃないか、それも普段演劇とは全く関わりのないような人達を対象とした形式で。
特に地域での文化発信の拠点となるようなホールや劇場で、このような「ただ戯曲を読む」という形での取り組みがもっと増えてゆくといいのになと思う。
そこから発表会へと向かってゆくかゆかないかはまた別にして、また、台詞の扱いの上手下手も関係なしの状態で、普段だったらまず触れることのないような戯曲を声に出してみる場を設けてみることは、決して無駄なことではない気がする。
例えばそれがその劇場での公演で使用される(或いは既に上演された)戯曲であったなら、そこから演劇の新たな楽しみ方を見出してくれるお客さんなども出てくるかもしれない。

そこにワークインプログレスのようなものもうまく組み合わせて行ってゆけば、そこの地域の方々にとっても「公演」へと向かってゆくんだという意識が芽生えてくるんじゃないのかなと思う。
公演というものへ向かっているのは何も創り手の人間ばかりではないんだ、という発想を持つことって、たぶん地域に演劇を根付かせてゆこうとするのならばとても大切なことのような気がする。

演劇への関わり方は、発信者(劇作家や俳優、スタッフなど)と受信者(観客)できれいに分けられるものでもないと思うし、もっとその中間層、例えば健康づくりのためにプール場やスポーツセンターに通うような感覚で演劇WSに足を運ぶような人達を増やしてゆくことが大切なんじゃないかなと思う。


かなり話が逸れてしまったけれども、まあ、この読み会を開催する度に何かしらのアイデア(別にそれが創作方面に繋がるものでなくても)が浮かんでくるのはとてもいい傾向だろうし、だからこそ今後もしっかりと今以上に人集めや運営について熟慮した上で取り組んでゆきたい。
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by syohousen | 2011-06-15 15:41 | レポート(勉強会) | Comments(0)