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本当に、遠い存在なのだろうか?

世の中の仕組みは、多くの人間にとって
日々の生活を送り易い形に
つくられるものであるのは自然なことであって、
それ自体は悪いことではないと思う。

しかし、だからといって多くの人間にとっての住みよい生活が、
絶対的な正義ではないことを忘れてはならないと思う。

そもそも、多数であるか少数であるかなんてものは
社会環境や社会の価値基準が変わればあっという間にひっくり返るし、
自分自身を取り巻く状況だって何かしらの事故などに巻き込まれれば
簡単に少数の人間の側に回ってしまうことだってある。

それくらい、自分達が世の中を生きる上で
当たり前だと思っていることは不確かなものでしかなくて、
だからこそ、あらゆる境遇の人について想いを馳せることは大事だし、
あらゆる人が生き易い社会のことを考えることが重要なことなのではないか。

そしてそれが、社会保障が必要な理由なのだと思う。



目の見える人が多いからこそ、
この社会はこういう色遣いで、こういう空間の使い方なのだし、
公共の場所では文字情報が主な案内手段になっている。

そして、耳が聞こえる人が多いからこそ、
街には音楽が溢れているし、逆に図書館では静かに過ごさねばならず、
学校ではチャイムが合図として使用されている。

他の事柄に関しても、
多くの人にとって過ごし易いように世の中はつくられている。

が、生まれてくる人間が100%
そういった多数の側の人間として生まれることはできないし
仮に多数側の人間になれたからといって、
人は年を取れば目も耳も、他の感覚も衰えてくるものだし、
事故にあって急に失うことだってあるかもしれない。

或いは、自分の子どもが
何かしらの機能不全を抱えて生まれてくるかもしれない。

それくらい、社会的なマイノリティと呼ばれる人というのは
特別な存在ではなく、身近な存在なのです。

「自分は多数の側の人間で、マイノリティの人間とは無関係なんだ」
という思い込みをまずは疑ってかかってみること、
それが、これからの世の中にはとても大切なことなのではないか、と思うし、
あらゆる境遇の人の苦労や頑張りに想いを馳せられる、
そんな発想が当たり前になる社会への第一歩なのではないかなぁ、と思います。
by syohousen | 2016-07-27 18:08 | ものの見方・捉え方について
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