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3/8(火) 読み会レポ

3/8(火)18:00~20:30
【声と身体の処方箋・勉強会】『読み会』
@清沓仲通会議室・洋室2

◆使用テキスト:宮沢賢治『オツベルと象』、『やまなし』、『宮沢賢治詩集』より数編

【進行】
■『やまなし』を段落毎に交代交代で読む
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■『雨ニモ負ケズ』『眼にて云ふ』『永訣の朝』を一人ずつ交代で読む
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■『オツベルと象』をページで分けて読む
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■『やまなし』を地の文(かにのお父さん)、かにの兄、かにの弟と分担して読む
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【印象的だった意見や言葉】
●作品によってその文体がだいぶ違っているのだけれども、その変化がいやらしくないというか、結果的にそういう形になってしまったという必然性を感じた

●擬人化の表現がよくよく考えてみれば結構無理があるはずなのに、決して読み手のイメージと喧嘩していない

●『やまなし』に出てくる「クラムボン」が何なのか、など、読み手によって様々な受け取り方のできる間口の広さはさすが

●『オツベルと象』を単体で読んだ時はさほど感じなかったことなのだけれども、他の作品と読み比べてみるとその読み口がだいぶ違っているのがよく分かる

●『やまなし』は、お父さんの対応の適当さなどをよくよく省みてみると、結構子ども目線で描かれている作品なんだなってことに気付いた

【ふりかえり】
先月に続いて、テキストは宮沢賢治を使用。
但し今月は『オツベルと象』に加えて『やまなし』と『宮沢賢治詩集』の中からいくつかの詩を選んでよんでみるようにしてみた。

同じ作家の作品を読み比べてみるというのは、それはそれで色々と発見もあるし、何より単体で読んだ時には意識が行かなかったようなポイントにまで目が向くようになるためにより多くの発見が生まれるのだなということを強く実感した。
こういう形でのテキストへの取り組み方はその作品をより深く読み込むために非常に有効な手段であるなと思う。

そういう点ではこの会の趣旨とも一致しており、とてもよい流れの元、発展してきている気がする。

が、その一方で、この会のもう一つの目的である「読み語り」という行為そのものに対する発見の比率が減ってきてしまっているなという実感もある。
作品への理解の深化に対してはだいぶいい向き合い方ができるようになってきたのだが、その理解を実際の「読み語り」という形での表現に結び付けるところまで到れていないのだ。
このままの流れだと、テキストの解釈にばかり意識がいってしまってどんどんと頭でっかちになっていってしまうと思う。

まあ、とはいえこれも必要な段階の踏み方のひとつなのだとは思うから、その点についてどうアプローチしてゆくのか、それを今後の課題として考えてゆけばよいのだと思う。
解釈のための解釈ではなく、ちゃんと「読む」というアクションに結び付けてこそその解釈も生きてくるのだと思うし、そこが結び付くことでまた新たな解釈が生まれてくるのではないかなとも思うので、次回以降はそこについてを強く意識して臨もうかと。
by syohousen | 2011-03-09 13:49 | レポート(勉強会)
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